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2010/07/13

帰郷

 「神は、その一人子を給うほどに世を愛された」とキリスト教は言う。そしてそれは、私たちが受け取った最大の恵みである。また主イエスは、「空の鳥を養っておられる天の神様は、鳥よりもすぐれたあなた方に、もっと良くして下さらないことがあろうか。だから、まず神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、すべてのものは、添えて与えられる」とも言われた。もし人が、神を第一とするなら、そのために必要なものは、すべて与えられるという約束である。
 ああしかし、この約束から「神を第一に」という前提を排除しておいて、この世の幸福を当然のことのように求める人がいる。そういう人は、祝福を盗み取る人のようである。なぜならその人は、神に求めているようで、実際には、そのために神にお願いすることもなく、限りのあるものをわれ先に手に入れようとするからである。そして、そのようにして手にしたものを祝福と呼ぶのである。この世界は、ちょうど今述べたような競争構造になっているのだが、神を第一にしないクリスチャンもそのように、この世の法則に従って生きているのである。
 この世の法則とは何か。それは、少ない物を多くの人々が奪い合うことである。しかし、それらは本当に足りないのだろうか。もしかすると足りなくはないのではないか。奪い合うから足りないのである。そして、強い者が弱い者の持っている物さえ奪い、その結果足りなくなるのである。主イエスが、「持たない者は、持っている物まで取り上げられる」と言われた通りである。そして、この法則は、また霊的な事柄に対しても適用される。ただし、その場合それらは、他人に奪われるのではなく、自ら失うように誘導される、つまり悪魔に奪い去られるのである。
 この「奪い合う」という構図は、実際に行われている行為以上の広がりを持っている。それは、行為以前の事柄、つまり「求め合う」とか「要求し合う」、「期待し合う」と言ったことである。つまり、「奪うこと」をしないまでも、それを欲し、要求し、期待するのである。この世界において、私たちは、そのような磁場の中に置かれているのである。たとえキリスト教会の中にあっても、例えば「互いに愛し合いましょう」という標語が、「互いに愛してもらえることを期待しましょう」というような文脈で語られるとき、これは時として説教者を誘惑する表現でもあるのだが、それは「限りあるものを奪い合う構図」を主の御体としての教会の中にもたらす可能性を持っているのである。
 いま私たちは、自分たちの持っているものをはっきりと自覚する必要がある。そうでないと押し流されて行ってしまう。つまり、キリストは、「受けるより与える方が幸いである」と言われたのであり、これこそがもっとも大切なことなのである。神の国は、幸福の追求ではない。それは、実にこの世にあっては軍隊なのである。「手を鋤にかけてから後ろを見る者は、私にふさわしくない」とキリストは言われた。しかし、多くのクリスチャンは、己が幸福を捜し求め、教会は社交場と化している。しかし、そこに何があるのか、私たちは知らなければならない。そこに、アダムと同じ価値観がある限り、つまり、「良くなる」とか「賢くなる」ということが目指される場合、そしてそれは、もちろん他人のためではなく、自分のためなのであるが、そのような競争の構図が出現するとき、そこに同時に、アダムの受けた呪いもまた出現するのであり、それが人生を苦い、無意味なものに変えるのである。
 「遺棄されてあることと、孤独とは、別のことである。そのことを、おまえは今やもう学んだのだ。彼らのもとでは、一切が話し、誰ももはや理解するすべを知らない。彼らのもとでは、一切が話し、何ひとつとしてもはやうまく行かず、成就しない。彼らのもとでは、一切が話し、一切が話し砕かれる。彼らのもとでは、一切が話し、一切が明るみに出される。いたわることと同情することとのうちに、つねにわたしの最大の危険は存した。事実、総じて人間存在は、いたわられ忍ばれることを欲する」、ツアラトストラは、かく語った。

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