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2010/07/07

背教者たちについて

 「背教者」とは何か?それは、信仰を捨てた者、あるいは正しい教えから逸れてしまった者のことである。しかしここに、一つの疑問がある。それは、「正しい教え」とは何かということである。というのも、そもそもキリスト教には、たくさんの教派があるが、それらがすべて正しい教えだとは、必ずしも言えないと思われるのである。なぜなら、もしそれらがすべて正しいなら、なぜ互いに歩み寄れずにいるのだろうか。また、なぜそれぞれに異なった訳の聖書を使い続けているのだろうか。このことは、一般信徒にとっても、決してどうでも良いようなことではない。なぜなら、上のような状況では、彼の所属する教派の頭たちが背教者でないとどうして確信を持って言うことができようか。
 しかし、もう一つの問題がある。それは、信徒一人々々に関わることである。たとえ彼の属する教派が、いわゆる正しい教えを持っていたとしても、そこに所属する信徒がその教えに無頓着で、それを理解せず、その教えの通りに生きようと志さないなら、彼は、正しい教えに従わない者、すなわち背教者と言えるのではないのか、ということである。初めてキリストを信じたときには、純粋な信仰を持っていた人が、人生を生きる内に、様々な考え方を身に付け、それを持ってして、彼の信仰を再構成するというようなことがないと言えるだろうか。例えば、彼の尊敬し、または憧れる対象としての人物に魅了され、そのような人格をベースに、信仰生活の基準を改良し、その基準で生きることが、何かキリスト信仰の中の新しい発見でもあるかのように思い、その軽快さ、スマートさ、見識の広さ等々を誇らしく思い、信仰の兄弟に対して優越感を持ったり、更には兄弟に対して、自分の発見を提示し、啓蒙するというようなことがあるかも知れないのである。それは多分、彼の所属する教派の信仰内容が、未だ彼に完全に理解されておらず、その信仰の隙間を彼自身の得た知識と経験で埋め合わせなければならなかったからであろう。
 このようにキリスト信仰には、上記のように二重の不確実性、すなわち、教派間の教義のゆらぎと信徒間の教義理解のゆらぎがあるのであり、このことが何を意味するのかを私たちは良く認識する必要があると思うのである。というのも、そのような状況は、一神教には、ふさわしくないと思われるからである。これについて、ツアラトストラは語る、「きみもよく知っての通り、きみのなかにいて、とかく手を合わせたがり、手をひざに置いて何もしないでいたがり、ますます安楽に暮らしたがる、きみの臆病な悪魔、この臆病な悪魔が『一の神あり!』と、きみに説得するのだ。だが、そのことによって、きみは、光をはばかるたぐいの者たち、光のなかではもはや安息が得られない者たちの一人となる。今やきみは、日々きみの頭を、いよいよ深く夜と靄のなかへ突っ込まざるをえないのだ」と。
 まことにどの教派も「一なる神」と詠唱する。しかし、その総体としての合唱は、一人の神のハーモニーを奏でるだろうか。確かにそこに、使徒信条という拍子の縦糸が張られてはいるのだが、個々の旋律の調性とテンポがばらばらであったなら。もしそのような状態にあるなら、そこで信仰生活を送る信徒たちは、まさにツアラトストラが言うように、「日々頭を、夜と靄のなかへ突っ込んでいる」ことになるのではないだろうか。そして再び、彼の言うように「『われわれは再び敬虔になった』、これらの背教者たちはこう告白する」、まさにそのとき、彼らは、自ら知らずして、信仰的な混乱の直中に生きていることになるのではないだろうか。もし、彼らが信仰生活の中に、何か本気になれないような、醒めた精神状態にあるのなら。また、聖書に記されているような感動的な神体験が、自分の生涯においては、望むべくもないと思っているのなら。
 「これら若い心の持ち主たちはみな、早くも老い込んでしまった。いや、老い込んだのですらないのだ。ただうみ疲、卑俗になり、無精になっただけである。彼らはそれを、『われわれは再び敬虔になった』と称しているのだ」、ツアラトストラは、かく語った。

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通り過ぎることについて

 主イエスは、「あなたがたはただ、然り、然り、否、否とだけ言いなさい」と言われた。そのように、信仰者にとって、自分の態度をはっきりさせることは大切なことである。しかし、それが何のためかと言えば、それはあくまで、自分の信仰を表明するためのものであり、それ以上のものとなってはいけないのである。
 しかし、この世界にあって、自分の立場の表明は、社会的な様々な目的のために成されることが多い。そこで、信仰者が発する、この「然り」と「否」による表明も、それを聞く側の立場により、様々に受け取られる可能性があるのであり、そのことは信仰者をして、その信仰の表明に対して、慎重な態度をとらせるのに十分かも知れない。しかし、それでも私たちは、あえて主イエスの言葉に留まらなければならない。というのは、「然り、然り、否、否」に留まるということは、世の悪知恵に対する一つの堅固な砦だからである。まことに信仰者が、信仰の表明ということを越えて、それ以上の何か社会的な意図を持って、自分の立場を表明するなら、そのとき彼はもはや、この「然り、然り、否、否」に留まることはできない。というのは、私たちの信仰表明の本質は、実に世を否定するものであるからである。それゆえ、私たちの表明が、「然り、然り、否、否」を越えて出るとき、それは必然的に、信仰の否定、世との妥協となるのであり、主イエスの意図は、そこにあるのである。
 しかし、さらにもう一つ考慮すべきことがある。それは、「然り、然り、否、否」を越える自分の立場の表明が、この世を軽んじ、信仰を肯定する場合の是非である。これについては、問題ないのではないか。しかし、主イエスは、それさえも禁じておられるのである。信仰者にとって、「然り、然り、否、否」を越えるもの、それは宣教以外にはない。私たちには、宣教の言葉以外に積極的な言葉は与えられていないのであり、それを越えて進むとき、私たちは、主と共に集めるものとはならず、返って散らすものとなってしまうのである。
 「わたしはおまえの軽蔑を軽蔑する。最初おまえに不平をならさせたゆえんのものは、いったい何であったか?誰もおまえに充分追従してくれなかったということだ。おまえがこんな汚物のもとに腰をすえたのは、大いに不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ、大いに復習するための根拠を得んがためなのだ。おまえが口からあわを吹いているのは、すべて復習なのだ。別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は、通り過ぎること(つまり、『然り、然り、否、否』による表明)だ!」。ツアラトストラは、かく語った。

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