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2010/07/02

オリーブ山で

 主イエスが良く世を徹して祈られたのは、エルサレムに近いオリーブ山だったと思われる。十字架の試練を前にして、精神的な武装が必要だったのだろう。主イエスでさえ、そんなに必死に祈られたのだから、私たちはなおさらである。試練の中にあるとき、私たちは一生懸命に祈ることが必要なのである。
 しかし、そもそも試練はなぜやって来るのだろうか。それには、いくつかの理由が考えられる。一つは、悪魔の勢力である。神がその存在を許しておられるのであり、それが神の陣営に戦いを仕掛けてくるのである。このことに関する神の意図は、定かには分からないが、もしかしたら、私たちが天国を獲得するには、それを戦い取る以外に方法がないのかもしれない。パウロは、「私たちが神の国に入るには、多くの試練を経なければならない」と言ったし、旧約聖書全体が語っているのは、正にそのための戦いのことなのである。
 二つ目は、私たちが鍛えられるためである。このことに関しては、パウロの「その子を訓練しない父親がいるだろうか」というような言葉がある。神は、私たちを御自身の子として取り扱い、御国の祝福に与らせるために、日々訓練をされるのである。しかし再び、なぜそれが必要なのか、ということに関しては、やはり定かには分からないが、主イエス・キリストの十字架の贖いの他に、何かが必要なのだと思う。パウロも、「キリストの苦しみの足りないところを私の体を持って補っている」と語った。
 三つ目は、福音の前進のためである。神は、ご自身の愛する独り子を、最大の試練に遭わせられた。そして、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたのである。つまり、神の愛とは、神を知らない愚か者のために、ご自身の愛する者を苦しみに遭わせられるのであり、そのようにして、人々を救われるのである。神は、人々を救うために、ご自身の独り子を苦しみに遭わせることにより、ご自身が苦しみ、そして、私たち愛する者たちにも、またそれを望まれるのである。
 これらの試練の意味を理解し、それを耐え忍ぶ者は幸いである。しかし、人々は往々にして試練に遭うのを好まないばかりか、それを避けようとしたり、またそうすることを人に勧めるのである。私たちを愛しておられる神が、私たちを苦しめられるはずがないと考えるのである。もちろんそれにも少しばかりの真理が含まれないわけでもない。それは、私たちが試練に苦しむとき、神ご自身も苦しんでおられるということである。それでも、神がそれを避けることを望まれないのは、それが必要だからである。何に対して、それは神が御存じである。そして私たちも、できれば試練に遭うことを逃れたいと思うのだが、というのは、試練は、訓練であり、成長の機会であると共に、また躓きの可能性もそこにあるからである。それゆえ、「私たちを試みに遭わせないでください」と祈るのである。しかし、ひとたび試練がやってきたならば、それを甘んじて受けるしかない。神がそれを与えられたのなら、神はそれから逃れる道をも備えて下さっているはずだからである。そして、すべてが神への感謝と神の栄光となるのである。だから、信仰者は試練のとき、弱り果ててはならないのである。そして、人々の語る安っぽい慰めに心を奪われてはならない。ひたすら神に目を向け、神に信頼し、神の試練を耐え抜こうではないか。
 「彼ら、わたしを取り巻く一切のこういうあわれな嫉視するやつらは、わたしが冬の寒さに歯をがちがちさせて嘆息するのを聞くがよい。このようにしきりに嘆息し絶えず歯をがちがち鳴らせながら、しかもなお、わたしは彼らの暖められた居間から逃走する。彼らは、わたしのかずかずの凍傷のゆえに、わたしに同情し、わたしと嘆息を共にするがよい。『認識の氷によって彼はわれわれまで凍えさせるのだ。』彼らはそう嘆く。そのあいだに、わたしは足を暖めつつわたしのオリーブ山を縦横無尽に走り回る。わたしのオリーブ山の日だまりで、わたしは歌い、一切の同情を嘲笑するのだ」、ツアラトストラはかく語った。

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小さくする徳について

 「心の貧しい人は幸いである」と主イエスは言われた。「心が貧しい」とは、つまり何も望まないことであり、そのような清貧が信仰においては美徳とされるようだ。しかし、私たちが生きているこの世界にあっては、それは一つの戦いであり、努力なしに達成できるものではない。というのは、私たちを絶えず誘惑し、どこかへ連れ去ろうとする、得体の知れない力が私たちを取り巻いているからである。この力を認識している者は、信仰の戦士である。彼は、それらの力に戦いを挑む。そして彼の生涯は、旧約聖書に出てくるような勇士の生涯となる。それら勇士の生き方は、それを読んでいる彼の人生そのものである。
 しかし、キリスト者と言われる人々の中には、彼とは全く違う人々が存在する。彼らは、あまり旧約聖書を重要には思わない。それは、過ぎ去った過去の記録に過ぎないと思っている。それよりも、新約聖書のパウロの手紙の方がよほど重要に見える。彼らにとって、旧約聖書の神は、怒りの神であり、新約聖書の神にして初めて愛の神となる。「互いに愛し合いなさい」、この命令を守ることが重要だと彼らは言う。しかし、どうしたらそれができるのかについては、あまり具体的に追求することはない。「神がわれらと共におられる。だから、すべてをゆだねれば良い」と彼らは言う。そして、それが方法論のすべてなのである。彼らは、己の道徳や勤勉、謙遜や思いやり等々をすべて上の一言から紡ぎ出して来るのである。
 しかし、何か変だと思わないだろうか。考えても見たまえ。いくら主イエス・キリストが神の一人子だとしても、その生涯と引き替えに、神があの分厚い旧約聖書をすべてお払い箱にされるだろうか。それともあれは、新約聖書を読んでいて、そこに書いてあることの中に、何か昔の習慣を知らないと理解できないようなことがあったときに参照すれば良いようなものだろうか。決してそうではないだろう。旧約聖書は、信仰のモチーフの宝庫である。それは、天から降ってきて、そこに凝集したのである。だからそれは、ある意味で天国そのものでもある。主イエスは、「天国は、激しく襲われている」と言われた。旧約聖書に書かれているような激しい戦いが、天国にあることを言われたのである。また、そこはある意味で、一つの混沌でもある。主イエスはまた、「風は思いのままに吹く」と言われたから。そこは、この世界から来た者にとっては、あたかも創世記の天地創造のように、新しい世界との遭遇なのである。
 「すべてが、前より小さくなった!」とツアラトストラは、自分の町に帰ってきたとき、そこを見回して言った。「小さくする徳」とまた彼は言う。それは、どういう意味か。「彼らにとって、徳とは、人を慎ましやかにし、飼い慣らすものである。それによって、彼らはオオカミを化してイヌとなし、人間そのものを化して人間の最上の家畜となしたのだ」とツアラトストラは語る。
 キリスト信仰を小さくしたのは誰なのか。彼らは、旧約と新約を切り離し、新約の中から語呂の良い聖句を暗唱句として書き出し、胸のポケットに入る程度のものにまとめてしまった。そして、「律法の全体は、要するにこの二つの戒めに凝縮される」と教える。しかし、その二つを行うために、旧・新約聖書のすべてが必要であることを彼らは知らないのだ。
 「小さくする徳」これは、日本人の性分にあっているようだ。すべてを控え目に考える習慣。自分を愛することを控え目にすれば、神を愛することも控え目で良いというような考え。自分で願わなくても、神が自動的に一番良いようにして下さるという考え。これらの流されて行く考えこそが、「小さくする徳」であり、それは、信仰とは正反対のものなのである。なぜなら彼らは、信仰においてただ無気力なだけでなく、自分たちのように考えない者、神に近づこうとする者に対抗し、その人々を異端視さえするからである。
 「いたわること多きにすぎ、甘やかすこと多きにすぎる、これがきみたちの土地のありようだ。だが、一本の木が大きくなるためには、その木はかずかずの堅い岩のまわりに堅い根を張りめぐらさなくてはならないのだ。きみたちが何かを怠ることもまた、人間の一切の未来という織物に織り込まれる。きみたちの無為もまた、一つのクモの巣であり、未来の血を吸って生きる一匹のクモである。『おのずから与えられる』、これもまた忍従の教えの一つである。しかし、きみたち自己満足の徒よ、わたしはきみたちに言う、おのずから奪われるのだ、そして、ますます多くのものが今後なおきみたちから奪われるであろう」ツアラトストラは、かく語った。

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