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2010/06/04

詩人たちについて

 我々信仰者は、聖書の言葉を自分の人生に適用する。それは、私たちが生活の中で神の御心を知るために必要なことである。そしてその聖書の個人的な適用はまた、同じように聖書信仰を持つ他の信仰者にとっても、多いにインパクトを持つ証しとなり得る。たとえそれが個別的な状況であっても、あるいは、ときにそうあればあるほど、それは神が個人の特別な状況や問題にあえて介入してくださるということの証しであり、試練の中にある信仰者を力づけ、希望を与えるものとなり得るのである。
 ダビデも敵から攻められ、苦難の中にある自分の境遇に神が介入されたこと、及びまだ、そのときすぐには問題解決の糸口は無かったが、神は彼を決して見放さず、いつも彼と共におられ、必ず彼を苦難から救い出してくださるとの彼の信仰を詩編に書き綴った。そしてそれは、時代を越えて現代を生きる私たちの信仰を奮い立たせ、彼と同じ信仰の足跡を歩ませる力を持っているのである。
 ああしかし、それでもときとして、信仰の兄弟が語る力強い証しがそれに耳を傾ける者の心を奮い立たせることができずに、返ってその信仰を萎えさせるというようなことが起こり得るのである。それは、いかなる場合なのだろうか。それは、例えば、証しをする者が、自分に与えられた神の恵みを十分に理解せず、それを正しく伝えることができない場合がまず考えられる。その場合、聞く者は、語られる証しを聞きながらも、そこに神の哀れみと恵みを十分に汲み取ることができないのだろう。しかし、例えダビデのような詩人であっても、それを完全に伝えることが可能だろうか。否、それは困難だろう。私たちは、神から完璧な知識と人格を与えられているわけではないからである。ダビデにしても、多くの失敗をしたし、たくさんの人々の血を流したことにより、神に仕えることにおいて、神から制限を与えられたのであった。それでもダビデの詩が私たちに影響を与えるのは、そこに神の恵みが働くからであろう。そして、神をしてダビデに恵みを働かせたのは、彼の神に対する愛と忠誠であったろう。
 そこで、一つのことが言えるのではないか。つまり、私たちの個人的な信仰生活において、神の特別な恵みと導きが必要であると共に、そこで受けた恵みを証しするときにも、もう一度神の特別な恵みと導きが必要ということである。さらにもう一つ付け加えるべきことがある。それは、たぶん、その証しを聞く側にも、神の恵みが働くことが必要であろうということである。
 しかし、そこにもし神の恵みが働くことがないなら、その証しは、ただの虚しい詩歌と同じであり、彼は虚栄の詩人と成り果てるであろう。彼の語る神は、彼の考え出した偶像以外のものではないであろう。そのような虚しい証し、目的の定まらない証し、神ではなく、語る者の方が崇められるような証しが確かに存在する。「ああ、天地のあいだには、ただ詩人たちだけが何ほどか夢想しえたような諸事物が、実にたくさん存在しているのだ。そして、天上においては、とくにそうだ。というのは、すべての神々は、詩人たちの弄する比喩であり、詩人たちの詭弁であるからだ。まことに、われわれはつねに引き上げられるのだ。すなわち、雲の国へと。この雲の上に、われわれは、われわれの色とりどりのぬけがらを置き、しかるのち、それを神々とか超人とか呼ぶのだ」と。
 ただ神の栄光を讃えよ。神の御名だけが崇められることを追い求めよ。我々は、もう自分の証しに自ら酔うことをやめよう。それなら、むしろ坦々とした証しの方がまだましである。証しの詩人は、もう返上だ。今日からそれを始めようではないか。「わたしはすでに見たのだ、詩人たちが変化し、自分自身にまなざしを向けたのを。わたしは精神の贖罪者たちが来るのを見た。彼らは詩人たちのなかから生じたのだ」ツアラトストラはかく語った。

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