« 2010年6月27日 | トップページ | 2010年7月2日 »

2010/06/30

日の出まえに

 キリスト教の神は、人格的な神である。それは、どういうことかというと、誤解を恐れずに言えば、「人は、神の意にかなう必要がある」ということであり、これが「みこころ」ということである。つまり、人が義とされるか否かは、彼の行動が正しいかどうかということよりも、それが神の意にかなっているかどうかにかかっているのである。この状況の頼りないところは、人が一生懸命に行動しても、それで必ずしも神に受け入れられるとは限らないということである。そこで人は、何か拠り所になるものが欲しいと思い、「義の基準」すなわち「律法」を求めたりする。それを守ってさえいれば安心と思うのである。しかし、これはつまり、神との人格的な交わりから遠ざかろうとする方向性である。
 このような状態に長く留まっていると、その人は、次第に神を非人格的な存在すなわち、何かの物理法則のように考えるようになってしまうだろう。そして、彼はやがて、神に祈るということの意味をも見失ってしまうかもしれない。というのも。祈るとは、お願いするという人格的な行為なのだが、神の人格から遠ざかろうとすることは、このようなコミュニケーションを、何か神への要求メールのように、一方的で無味乾燥なものにしてしまう危険性を持っているのである。
 神との関係がそのように変化してくると、それは段々と人自身を圧迫するものになってくる。そしてついに人は、それから逃れたいと思うようになるだろう。それはその人が、神を何か自分を束縛するもののように考えていて、それから逃れることが、その呪縛から開放されることだと考えるからである。しかし、人格的な神から逃避するということは、この世界を偶然の産物と断定することである。
 「一切の諸事物の上には、偶然という天空、無邪気という天空、不慮という天空、奔放という天空が、かかっている。一切の諸事物の上に、またそれらを貫いて、なんらの永遠的な意志も、意志していない。あらゆることのなかで、ありえないことが一つある、つまり合理性だ」とツアラトストラは語る。神の意志が合理的であるというのは、神と人格的な関係にない人に特有の考えである。彼は漠然と、神もこの世界に内在すると思っている。そして神は、偶然に支配されているこの世界を何らかの目的のために合理的に操作しようとしていると思っているのである。
 そのような考えは、ともするとクリスチャンの中にも見い出される。聖書のここにこう書いてあるのは、こういう意味だとか、こう読むべきだとか、何か趣向を凝らして味付けしなければ気が済まない人たちがいる。彼らには、神がどう考えておられるのかは、どうでも良いのだろうか。また、「神は、その一人子を賜るほどに世を愛された」という言葉から、様々な人生の幸福を紡ぎ出してくる人たち、彼らは、それらの幸福を、主イエスの大宣教命令実現のための手段の一つとでも思っているのだろうか。
 私たちは今、自分の信じている神について、はっきりと認識しなければならない。神は、侮られるような方ではない。神は、何かを成し遂げるための手段として、この世界を造られたのではない。神は、私たちに考えられるような目的の実現のために歴史を動かしておられるのではない。神の思いは、私たちの思いを遙かに越えている。私たちには、神の目的が分からないが、ただ神が良いお方だだと信じるゆえに、すべてを委ね、すべてを堪え忍び、従うのである。「世界は深い、かつて昼が考えたより深いのだ。すべてのことが昼の面前で発言されてよいといわけではない。だが、昼がやって来る。では、別れよう。おお、わが頭上の天空よ、おまえ、はにかんでいる者よ。顔をほてらせている者よ。おお、おまえ、日の出まえの、わたしの幸福よ。昼がやって来る。では、別れよう」ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年6月27日 | トップページ | 2010年7月2日 »