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2010/06/27

意に反する至福について

 ツアラトストラは、更に航海を続け、すでに四日が過ぎ去った。彼の心には、大いなる決意と身構えがあった。すべてのキリスト教的要素を捨て去り、神に背を向けたからには、何か大きな変化が彼を襲うかも知れないと思っていたのである。しかし実際には、その彼の意に反して、何も特別な異変はなく、清く澄んだ天空と広々と開けた海の直中で、やさしい午後の光が彼を包んでいたのであった。
 「今までのところ、わたしには、わたしの最後の戦いの時は到来しなかった。それとも、その時は、おそらくはちょうど今、わたしに到来しつつあるのか?まことに、陰険な美しさを帯びて、海と生とが、まわりからわたしを眺めている。」まさに彼の恐れた通り、その戦いのときは、そのとき不気味にも彼に訪れていたのかも知れない。
 これまで、少なくない数の人が、キリスト教に背を向け、そこから立ち去って行った。そして、私の知っている範囲でも、彼ら背教者の内の幾人かは、自分の離反における劇的な変化を恐れると共に、また一方で密かにそれを期待していた。神がもしかしたら、自分を引き留めてくれるかも知れないと。あるいは、そのようにして、それが彼にとっての最後の戦いと成り得たかも知れない。しかし、果たして彼は、そのようなことが起ったとき、その結果、神の元に留まろうとするだろうか。また、そもそも神がそのようなことをされるだろうか。キリストの十字架と復活という出来事がすでにありながら。そこで、もし神が新たな方法によって彼を引き留めるとしたら、神は自ら、キリストの十字架と復活を虚しいものとされることになるのである。
 ところで、人生における「劇的な変化」とは何だろうか。それは「キリストとの出会い」である。それは、何か友達を紹介されるような、あるいは、有名人をまた一人新たに知るような、そのようなものでは断じて無い。それは、強いて言えば、「自分の片腕を失った」ようなものである。彼は常にその片腕で、キリストにつながっていなければならないからである。そればかりではなく、もう一方の腕も彼の自由にはならない。彼はそれを持って、神のために働くのである。そこで、キリストとの出会いが、このようなものである限り、それは彼にとってのまさに「劇的な変化」なのである。しかしキリストとの上記のような関係に入ったことのない人、すなわち「劇的な変化」を経験していない人は、またキリスト教からの離反においても、「劇的な変化」を経験することがないだろう。それは、彼が実はキリストと一度も出会ったことがないということなのである。そこで、ツアラトストラが恐れ、また密かに期待していたところの「劇的な変化」は、彼の上には、起ころうはずもなかったのである。
 人は、聖書を読んだり、牧師の説教を聞いたり、美術品を観たりして、それらのことにより、キリスト教を評価しようとする。しかし、キリスト教とは、そのようなものではない。そのようなことをいくら続けても、キリスト教を知ったことにはならないのである。キリスト教とは、イエス・キリストとの関係なのだからである。神は、ツアラトストラに対して沈黙された。神は、彼を呼び戻すことをされなかった。あたかも彼を見捨てられたかのように。それは、何を意味するのだろうか。それは実に、キリストと人との出会いの永遠性を示しているのである。キリストとの出会いを経験した者は、もう二度とキリストから離されることはない。彼の名前は、世の始まる前から命の書に記されているからである。しかし、キリストとの出会いを経験しない者は、キリストから離されるということすら感じることはできない。彼は、最初からキリストと出会ったことがないからである。この世界には、まだキリストと出会っていない人々が存在する。しかし私たちは、時間の中に生きており、誰が今後キリストと出会うかを前もって知ることはできない。だから、力を尽くして人々をキリストに招かなければならないのである。
 「立ち去れ、おまえ、至福の時よ! むしろ、かしこに、わたしの子供たちのもとに、宿をとれ! 急げ! そして、夕暮れにならぬうちに、わたしの幸福でもって彼らを祝福せよ! 早くも夕暮れが近づいてくる。日が沈むのだ。去れ、わたしの幸福よ!」ツアラトストラは、かく語った。

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