« 2010年6月22日 | トップページ | 2010年6月27日 »

2010/06/23

幻影と謎について

 ツアラトストラは船に乗り、旧い価値観からの逃避を図った。それは、当時のヨーロッパを支配していたキリスト教的な価値観からの逃避であった。しかしそれはまた、単なる逃避、再び戻って来ようと思えばそうできるようなものではなく、実にそれらからの永遠の決別だったのである。そこで彼は、2日の間、船の中でふさぎ込んでいたが、2日目の夜に自ら口を開き、彼と同じように旧来の価値観からの脱却を目指していると思われる者たちに彼の思いを、自分の見た幻という形で語った。
 宗教的な価値観というものは、人の幼い頃から培われてきたものであり、生活の隅々にまで浸透している。特に当時のヨーロッパにおいては、キリスト教的な価値観の浸透が著しかった。それは、学問から芸術に至るまで、生活のすべてを網羅し、それらを背景に、人々に倫理面からの強い圧迫をさえ与えていた。それらは、さながらツアラトストラが「重力の精」と名付けたように、新しい自由な考えから、旧来の固定的な考えへと人々を引き戻す原動力であった。この大いなる呪縛から逃れる道はただ一つ、それらキリスト教的なすべての要素の否定しかあり得ないことをツアラトストラは自覚し、その大いなる喪失の前に、彼はたじろいだのであった。
 もし彼が、それをあえて実行するなら、その結果彼は何を失うことになるのだろうか。経済的な基盤か、それとも文化生活の流れか。しかし彼がもっとも恐れたのは、すでに自分の中に浸透していたキリスト教的な要素であったのだ。それを否定し放棄することは、彼の人格の崩壊につながるのではないか。それほどそれは、人間の内部に浸透している可能性があるのである。彼はその状態を一つのグロテスクな幻として見た。大きなヘビが一人の男の口から入り込み、喉の奥にかみついていたのであった。ツアラトストラは、全力を上げてそのヘビを男の口からひきずり出そうとしたが無理であった。まもなくその男の息が絶えるかと思ったツアラトストラは、思わず「かみつけ!頭をかみ切れ!」と叫んだ。するとその男は、その通りにヘビを噛み裂き、そして跳び上がった。
 キリスト教的な要素への離反、ないしは決別、その方法は、攻撃以外にはない。ツアラトストラも最初は、単にキリスト教と別れて別の道を歩くことを模索していた。できれば敵対したくはなかった。自分が幾ばくかでも有名になり、弟子が増え、多くの人々が自分の考えを支持するに至ったころ、必要ならば、そのころになっておもむろにキリスト教に対する疑問を投げかけようと思っていたことだろう。しかし、そうではなかった。キリスト教の排他性は、実に徹底したものであり、それは、そこからあえて逃れようとする者に重くのしかかり、最終的に自己を提示するのである。それは、「熱いか冷たいかであってほしい」と言われたキリストの言葉に、たとえどのようにではあれ、従った者への一つの報酬であるのかもしれないが、とにかく、曖昧な意識の中に、生温い信仰生活を送っている者には、到底実感することのできないものだったのである。
 私たちは今、このことを心に刻まなければならない。ツアラトストラという一人の英雄がキリスト教という巨大な真理に反抗して、永遠の滅びをも恐れずに、それとの離反を企てたのである。私たちは、この書物を読むとき、それが何を意味するかをしかと認識しなければならない。一人の魂が永遠に滅びるかもしれないのである。彼は、自分の魂をかけて私たちに、キリスト教とは何であるか。それがどこまで広がりを持っており、それに反論するとはどういうことなのかを教えたのである。そして、私たちは今知らなければならない。私たちの日々の信仰生活の中に、キリストに従わないものがないかどうか。そして、ツアラトストラによれば、それは例え小さなものであっても、キリスト教全体に対する離反なのであり、キリストに対する反抗なのだということを。キリストに従うと言いながら、安穏とした信仰生活を送るということは、実際には、あり得べからざるものなのだということを。あなたの生活は、すべてキリストに捧げられたもの以外ではあり得ないのだということを。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年6月22日 | トップページ | 2010年6月27日 »