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2010/06/22

さすらい人

 弟子たちと別れたツアラトストラは、真夜中に尾根を越えて、島の反対側にある港を目指した。彼は、そこから船に乗って、今彼が生活する至福の島々を後にしようと思い立ったのだった。いったい何が彼を駆り立て、そしてどこへ連れ去ろうとしていたのだろうか。それは実は、まさに芸術や文化をも含めたキリスト教的なすべての要素からの離反だったのである。
 しかし、ツアラトストラはそのような考えを、神に敵対しようとする高慢な心から抱くに至ったのではなかったのだろう。そして、愛する弟子たちとあえて別れ、悲しみと孤独に耐えながら向上を模索する彼の意志は、万人のための犠牲的精神とも受けとれるものであり、その意図は正しく、献身的で敬虔なものにも思われる。しかし、それでもキリスト教は、彼のアプローチを罪として断罪するだろう。その理由は、まず第一には、すべてを把握したいという欲望である。そのこと自体は、それほど悪いこととは思われないかもしれない。しかしこの「すべて」というものの中には、実に全能の神自体も含まれているのであり、結果的に彼は、神の上に立つこととなる。つまりこれは、かつて天使長ルシファーが陥った野望と同じものなのである。そして第二には、キリスト教の難点を他の方法で解決しようとする合理性である。これは、キリスト教的には不信仰であり、結局先の野望の少し弱まったものということになるのである。
 「ツアラトストラは、冷涼たる山頂で自己の決心について自分自身に語った。だが、彼が海の近くに来て、ついにひとりで断崖の下に立ったとき、彼は途中で疲れてしまい、いまだかつてなかったほど憧憬に満たされた。また彼は、自分が置き去りにした友人たちのことを想い起こした。そして、あたかも自分の想念によって彼らに罪を犯しでもしたかのように、彼は自分の想念のゆえに自分に腹を立てた。かくて、たちまち、この笑っている者は泣くにいたった。腹立たしさやら憧憬やらで、ツアラトストラはいたく泣いた。」このような豊かな感受性を持つツアラトストラが全世界の人々、キリスト教では救われ得ない人々のために独り立ち上がり、真理を探し求めながら歩き回る。その姿は、人々を感動させずに置かないだろう。彼の弟子になった人々は、まさにそのような献身的、英雄的な彼の姿に心打たれたからであったのだろう。そして、彼のような英雄は、今日を生きる私たちをも大いに誘惑する。テレビを見ても、本を読んでも、映画を観ても、そこにかっこいい、親しみにあふれて近づきやすく、心許したくなるような愛すべき人々が溢れているのである。そして、ややもするとキリスト教の説教者ですら、彼らを用いてメッセージに味付けすることが効果的であるような、また彼らの生き方の中からキリスト教的な要素を取り出し、それを解釈して用いることが神の栄光に役立ち得るような、そんな誘惑に駆られること仕切りなのである。
 しかし再び、彼らはキリスト教によって罪ありとされる。そればかりではなく、最大の罪として断罪されるのである。ここにまさにキリスト教の本質がある。そして、この本質を理解しない者は、未だキリスト教を理解していないのである。いったい「信じる」とは、どういうことなのか。それは、「理由なく信じる」ことなのである。それゆえ、信仰と比較されるどのような美しいもの、心動かされるもの、愛すべきもの、親しむべきもの、それらの一切が存在しないのであり、「すべて信仰によらざることは罪」なのである。そして、それが信仰の父アブラハムがその愛する長子イサクを神への生けにえとして捧げた行為なのであり、天の父が愛する独り子を十字架にかけた愛なのである。
 「だが、おお、ツアラトストラよ、おまえは諸事物全体の根底と背景とを見ようと欲した。されば、おまえはどうしてもおまえ自身を超えて登らなくてはならないのだ。上へ、上方へ、おまえがおまえの星々をすらも自分の下にするまで!そうだ!わたし自身を見おろし、さらにはわたしの星々を見おろす、そうであって初めて、わたしにとって、自分の山頂と言えるのだ。それが、わたしにとって、なお自分の最後の山頂として残されていたのだ!」ツアラトストラは、かく語った。

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