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2010/06/18

最も静かな時

 「真理は、あなたがたを自由にする」と主イエスは言われた。この場合真理は、それを聞く者を拘束せず、返って様々な因習やその動機となっていた無知や恐れから解放するのである。それは、真理とは神の愛であり、それを知ることは、神がどういうお方かを知ることだからである。そして、神を知った者は、もはや人生で迷うということがないからである。
 しかし、真理がもしこのような人格的なものでなく、何か物理法則のようなものであるとしたら、彼はその真理によって、自由になるどころか、返って逃げ場のない束縛の中に追い込まれてしまうことになるだろう。ツアラトストラが到達した真理とは、まさにそのようなものであった。そして、彼にとって真理による自由とは、その高圧的、一方的な真理を無条件に肯定し、受け入れることであった。それは、まさにニヒリズムであり、受け入れる対象の内容如何よりも、それを自らの意志で受容する行為こそが彼を自由にするという形態である。このような精神的行為にもっとも類似した実行為は、自殺であろう。それにより行為者は、自らの意志で束縛から解放される。しかしそれは、ニヒリズム(すなわち虚無思想)の上にのみ成立するのである。
 この恐ろしい真理に到達したツアラトストラは、それを自覚するなり驚愕のあまり悲鳴をあげた。そして、彼の顔から血の気が失せた。というのは、彼は二重の重圧を感じたからである、一つは、彼自身がこの真理に生きなければならないということ、もう一つは、彼の弟子たちにこの真理を伝えなければならないとうことである。それにより、彼は自分自身だけでなく、この世界のすべてを無とすることになるのである。ツアラトストラは、自分が未だそれができる段階に達していないと思った。それができるためには、彼は弟子や友との関係のすべてを無に帰さなければならないのであった。それには、文字どおり一切を捨てなければならない。しかしそれでは、彼の到達した真理の意義が分からなくなってしまう。この大いなる矛盾がツアラトストラを悩ませたのであった。
 しかし、ツアラトストラを後戻りさせない一つのことがあった。それは、彼の発見した真理がもたらす重圧こそが、すなわち彼自身の存在そのものでもあるということであり、それが永劫回帰思想なのである。もし彼が一切の望みを捨てることができるなら。彼は、真に彼自身となるのである。しかしそれが、生きることなのか、死ぬことなのか、有り続けることなのか、それとも永遠に消滅することなのか、喜びなのか、破滅なのか。それは、今の彼には分からない。とにかく、今の自分には、この現実を受け入れる力はないと悟ったツアラトストラは、弟子や友に別れを告げて、もう一度山に退いたのであった。
 ツアラトストラは、自ら神を捨てて、一つの真理に到達した。そして、それは彼にとって良いことなのか、最悪のものなのか、分からなかった。それでは、信仰者はどうだろうか。すべてを捨てて主イエスに従った。しかし、それが良いことなのか悪いことなのか、真理なのか、騙されているのか。それは、分からないのである。分からないのに、それを必ず良いことだと信じるのである。分かっていたら、信仰ではない。分からないことを信じるのが信仰なのである。

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