« 2010年6月9日 | トップページ | 2010年6月18日 »

2010/06/16

人間と交わるための賢さについて

 私たち信仰者は、天に属すると同時にまた地に属している。神と交わると共に世の人々と交わる。そこで、賢さが必要となる。主イエスも「あなたがたは、鳩のように聡く、蛇のように賢くあれ」と言われた。
 まず私たちは、この世における繁栄を求めてはならない。繁栄を求めるならば、世に欺かれることになる。第二に、世の人をいたわることである。彼らがいかに虚栄心に燃えていようとも、それを裁かないことが肝要である。というのは、彼らの虚栄心の動機は、実は彼らが自分に自信がないのであり、それをカバーするために他人からの賞賛を求めているからである。そこで、ツアラトストラが言うように、ある意味で、彼らほど自分を卑下している者もまたないのである。というのは、信仰者にして見れば、自分とは、天の神に愛される神の子であり、彼にはすべてが可能だからである。第三に、世を恐れてはならない。世の人は、様々なものを恐れる。彼らの幸福は、実に壊れやすいからである。しかし、私たちはそれらを恐れる必要はない。私たちは震われない国を受けているからである。
 しかし、そのように信仰者が世の人々と比較して、あらゆる面で卓越していようとも、私たちは世の人を見下したり、自分の信仰の確信を不用意に振りかざしたりしてはならない。そのようなことをすれば、世の人は、私たちを誤解してしまうからである。そこで、彼らを愛し、福音を伝えたいと思うなら、私たちは、ある程度彼らに調子を合わせる必要もある。但し、世のやり方ではなく、神に導かれたやり方でである。主イエスも、カイザルに税金を納められた。また、サマリヤの井戸べで女に水を乞い求められた。それらは、すべて福音を宣べ伝えるためであった。その意味では、世の人に対して真剣に対応しているとは言えない要素がそこに含まれるようにも思われるかも知れない。しかし、それらは一つの紳士的な配慮とも言えるし、また何よりも、愛から出た行為なのである。そして、それを働くために私たちは、肉体に留まり、世の組織に加わり、仕事に勤しむのである。そして一方、世の人は、この世の幸福を得んがために、肉体に頼り、世の組織に加わり、仕事に勤しむのである。
 「しかし、わたしはきみたちの仮装している姿を見たい、きみら隣人たちよ、同胞たちよ、十分にめかしこみ、見栄を張り、『善にして義なる者たち』のように威風堂々としている姿を。そして、わたし自身も、仮装してきみたちの間に座っていたい、それというのも、わたしがきみたちをもわたしをも誤認せんがためであるが。これがすなわち、人間と交わるための、わたしの最後の賢さなのだ」、ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

救済者について

 人間は、自由意志を持っている。しかし、彼はまた時間の中で生きているゆえに彼の自由意志が及ぶ範囲もおのずと制限されている。というのは、すでに起こってしまったことに対しては、彼の意志はもはや何一つとして介入できないからである。さらに、彼が現在置かれている状況が過去の結果であり、そして未来がまた現在の延長上にあるということから、彼の人生全体が「過去」という、もはや取り返すことのできないものに、ある意味で支配されているとも言えるのである。かくて人間は、自由意志を持っていながら、実際はきわめて不自由な存在であり、そのことが自由意志を持つ彼にとっては、返って大きな矛盾でもあるのである。いったいどうしたら彼は、この大いなる矛盾から解放されるのだろうか。
 それは、2つの面から考えることができる。一つは、彼の過去の行いの評価である。もしこの評価が、何かの法則に則った機械的なものであるとしたら、彼の評価は、もはや永久に変更不可能となり、そこに何らかの価値観が設定された場合には、彼は永久に渡る評価、すなわち裁きを受けることになるだろう。もし彼がそれを回避しようとすれば、すべての価値観の排除、すなわちニヒリズムを選択せざるを得ない。しかし彼の行為を評価する基準が十分な情状酌量の余地を持っているものならば、彼は自分の過去の行為が一方的に評価されることからは守られるだろう。しかしここに、もう一つの問題がある。それは、彼が情状酌量の扱いを受けることは、彼の過去の行為の評価が曖昧になることであり、それにより彼自身の善悪基準は、無傷ではいられないということである。彼がその危険を回避できるためには、キリストの犠牲がどうしても必要なのである。
 彼の自由意志と過去の行為に関する束縛の間の矛盾からの解放へのもう一つの契機は、彼の可能性の増大である。確かに彼は、彼の過去に大きく依存している。しかし、もしそれを上回る可能性が彼にあるならば、彼は自分の過去の束縛から解放されて、彼の自由意志が指し示す方向へ向かうことができるだろう。通常、それを実現するものは、彼の持って生まれた才能や財力、そして血のにじむような努力である。しかし、それらのどれも持ち合わせていない者でも、全能の神を信じるならば、それが彼の大いなる可能性となり得るのである。
 そこで、ツアラトストラのような、自ら神を捨て去った者、ただ自分だけの力で最後の最後まで到達しようという者にとって、自己の自由意志と過去の束縛の間の矛盾を解決するものは、彼の過去と現在を、それがたとえどのようなものであっても全面的に肯定すること以外にはないのである。ああもしそれが、神の存在可能性までも含めて、探求と反省の可能性を含むものであったなら。しかしそれは実に、神を退けたという彼の過去における行為とその結果としての、神を信じていないという現在の状態さえも全面的に肯定することなのである。なぜなら、その意志は権力への意志であろうとするからである。
 「権力への意志であるところの意志は、一切の和解より高いものを意欲しなくてはならない。しかし、意志がそのように意欲することは、いかにして行われるのであろうか?誰が意志に、後戻りして意欲することをすらも教えたであろうか?」ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年6月9日 | トップページ | 2010年6月18日 »