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2010/06/09

予言者

 私たち信仰者は、ある運命の中に生きている。それは、永遠の昔に立てられた神の救いの計画である。それは、予定と呼ばれることもある。この予定の中にある人にとっては、現状はやがて過ぎ去る仮染めの状態に過ぎない。大いなる変化が彼を待っているのである。しかし、この予定の中に入らない人が存在する。その人にとっては、この世界のすべてのものは虚しい。まことに「一切は空であり、一切は同じことであり、一切はすでにあったのだ」。そのような人にとっては、この世界と自分を否定するか、それとも、現状のままですべてを肯定するかのどちらかしかない。どちらにしても、それは苦しい戦いである。ツアラトストラは、自ら神を捨て、超人への道を選び取った。そして、その道の険しさをいま悟り始めたのであった。
 しかし、それでは永遠の救いの計画とはなにか。私たちは、本当にそれを理解しているだろうか。例えば、永遠の国であるところの天国は、どういうところだろうか。命の水の川が流れ、木々は毎月実を結び、都はすべて透き通るような純金と、ここまでは聖書に書いてある通りである。しかしその後に書かれている、私たちは小羊と父なる神の御顔を仰ぎ見、神を礼拝し誉め讃えて暮らすということを心から求めるだろうか。それは永遠に続くのである。
 ツアラトストラがめざす永劫回帰とクリスチャンが予定されている天国での生活は、ある意味では同じ性質のものである。そこに、天国か地獄かの違いはあるが、「永遠に続く」ということにおいては、同じものなのである。そして、神を永遠にほめ讃えることを好まない者にとっては、天国もまた地獄と同じかもしれない。そこが永遠の楽園(リゾート)のように考えていた者にとっては、そこは、地獄のように窮屈なところではないだろうか。
 しかし、そうではない、私たちは変えられるのである。主イエスと同じ栄光の姿に。この世界に執着するものから、天国の住民、神の家族へと。そこでは、信仰の小さい者から大きい者まで、あまねく神を完全に知ることになるだろう。そのとき、彼は知るだろう。現実とは何か、私たちが見て、親しくしていたものは、実際はどういうものだったのかということを。
 その転機は、すべての人に必ず訪れる。時が永遠に入るという転機が。この有限の時間の後に、必ず無限の時間がやってくる。そして、私たちはそこを生きて行かなければならない。有限の心を持ってか、または、無限の心を与えられて。前者の場合には、有限性の無限なる流転、すなわち永劫回帰となる。後者の場合には、有限のものが無限を着るということになる。そしてそれも永遠の繰り返しではあるが、それは完成された一瞬の永遠なる繰り返しなのである。
 「もうしばらくすると、この長いたそがれがやって来る。ああ、どうすれば、わたしは自分の光を、このたそがれのかなたまで、消えないように守ることができようか!わたしの光がこの悲哀のなかで窒息せざらんことを!それは、より遠い世々にとっての、またさらに、もっとも遠い世々にとっての、光であれかし!」ツアラトストラは、かく語った。

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第2章 死人がよみがえる12の証拠

 ガジマ師の教会では、すでに150人以上の人が死からよみがえっているという。それなら、「死人がよみがえる12の証拠」を挙げようと思えば、その中から12人を選んで証しをしてもらえば話は簡単かもしれない。しかし、彼はそうはしない。彼にとって証拠とは、聖書の言葉なのである。というのも、ガジマ師が示したいのは、「死人がよみがえった証拠」ではなく、「死人がよみがえる証拠」なのであり、むしろ今後のことに力点が置かれているのである。それを示すために、彼はまず、「聖書にこう書いてある」と、その箇所を示し、つぎに自らの体験を証しする。これ以上に確かな証拠はない。特に、ガジマ師が初めて死人(それは赤ん坊であったが)を生き返らせたときの証しは手に汗握るものがあり、感動的である。それは、彼の教会におけるリバイバルの引き金となった。それにより、彼の教会は、老信徒2人の死にそうな教会から、一気に信徒100人以上の命に満ち溢れる教会となったのである。しかし、そのために彼は、赤ちゃんを殺したと誤解され、群衆に囲まれて危うく警察へ連れて行かれるところであった。そのぎりぎりの状況に神が介入され、彼は神の「わたしはよみがえりであり、命である」との御声を聞いた。そして、その言葉は、死んだ赤ん坊の上にに成就したのであった。
 私たちは、千の証拠よりも、むしろこの神の御声を聞くことを欲する。その御声はどうすれば聞こえるのだろうか。まずそれは、電光石火百発百中の御声である。それは、必ず成就する。それゆえに、失敗は許されない。それを聞くには、100%の従順を必要とする。というのは、この神の御業を行うのは、自由意志を与えられた人間だからである。そこで神は、ご自身を100%信頼し、御声にどこまでも聞き従う者にご計画を語られるのである。実際に神の語りかけを聞いたという人はいる。しかしそれは、神がその人を哀れみ、その人のためにその人の内にご自身の臨在を教えるためであった。しかし神の命令は、それとは異なる。それはその御声を聞く人のためではなく、神の栄光が世に現されるためのものなのである。次に、神が語られるのは、神の御声を覚えた人に対してである。それには、祈り以外にない。ガジマ師は、主イエスのように、夜を徹して祈るという。第3に、ただ神にのみ頼る人である。この世のすべてのものに失望し、それらを軽んじることを学び、最後に自分さえも信じなくなった者、そのような者に神は語られるのである。そして、それが実に、ガジマ師が最初に死人をよみがえらせたときの状態であった。
 そこで、神の栄光を見たいなら、この状態に自らを置く必要がある。そしてそれは、往々にして辛いことである。そのとき自分の運命は、神の前に風前の灯火となる。そして、それでも神の助けは来ない。それは、ついにやって来ないかもしれない。しかし、もしそれがやってくるとすれば、それが神の栄光となる場合である。そして、たとえそれがやってこない場合にも、それが神の栄光となるのである。これらを覚悟できる者、つまり自分を捨て、日々十字架を負い、主イエスに従うものだけが、神の声を聞くのである。

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