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2010/06/04

大事件について

 この「大事件」とは、一つには「革命」を意味している。それは、永い歴史がまた一つ転回するために、あるいは必要なことだったのかも知れない。そこに支払われてきた大きな犠牲のことを決して忘れてはならないのだが、それでもそれは、旧態依然とした社会構造の下で、人知られず制圧にあえいでいた人々の生活に希望の光が当てられて、社会に新しい観点からの全体最適化が起こるための一つの契機でもあり得たのである。しかし、ツアラトストラは語る、「さあ、友よ、地獄の喧噪よ、わたしの言うことを信ぜよ!最大の事件、それは、われわれの最も騒々しい時ではなくて、われわれの最も静かな時なのだ。新しい喧噪の創案者たちをめぐってではなく、新しい諸価値の創案者たちをめぐって、世界は回転する。耳にきこえずに回転する。さあ、告白せよ。おまえの喧噪と煙が消え失せたとき、ほとんど何事もなかったのが常であった。都市が一つミイラになったところで、かくて立像が一つ泥のなかに倒れていようとも、なんのことがあろう」と。
 世界の歴史は転回し、新しい支配が始まり、文化が起こり、物事が考察され、思想が掲げられる。しかし、人々の思いの深いところは何も変わらない。そこは、まるで深い海の底のようで、世の喧噪もそこまでは届かないかのようだ。たとえ、その改革のために無数の人の血が流されたとしても。そしてそれはまた、一人の人間の人生においても言えることなのである。彼の人生に起こってくる衝撃的なできごと。社会への船出、出世、伴侶との出会いと結婚、家族の形成、病や事故、損失と喪失、回復と展望、死による離別。それらの一つ一つが、私たちにとっては、どれをとっても、完全に制御できない、従って責任のとれない、真正面から取り組むことの困難なことがらなのである。私たちは、それらが与える影響から逃れることはできない。そして、それらのできごとは、私たちの人生に大きな痕跡を残すことになる。しかし、それにも関わらず、それらにより、私たちの生き方が根本的に変わったかと言うと、そのようなこともない。私たちの深いところは、依然として何も変わっていないのである。それならば、私たちはいったい、精神なるものを想定する必要があるのだろうか。もしそれが、どのようなことにも、決して変わることがないとしたならば。まことにニヒリズムからは、このような結論しか出てこない。神不在の思想からは、何も生まれてくるものがないのである。もしそこに永遠に続くものがあるとしたならば、それは永劫回帰以外のものではない。つまり意味のないものの永遠の繰り返しである。そして、その場合の最高のものとは、その永劫回帰を受け入れること、自ら永劫回帰そのものとなることなのである。
 しかし、キリスト教は、狂ったように叫ぶ、「時は満ち、天国は近づいた!」と。「私を信じる者は、永遠の命を持つ!」と。それも一つの狂気であり、その事実性を証明することはできない。私たちは、それがどこから来て、どこへ行くのかさえ知らない。しかし、一つだけ確かなことがある。それが、実際に私たちのところに来たのであり、そしていま、それが確かに私たちのところにあるということである。
 かくて、もう一度、ツアラトストラは頭を横に振って、いぶかった。「わたしはそのことをどう考えるべきであろうか」と彼はもう一度言った。「いったいなぜ、幽霊は、『時が来た!時が熟した!』と叫んだのであろうか」、ツアラトストラはかく語った。

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詩人たちについて

 我々信仰者は、聖書の言葉を自分の人生に適用する。それは、私たちが生活の中で神の御心を知るために必要なことである。そしてその聖書の個人的な適用はまた、同じように聖書信仰を持つ他の信仰者にとっても、多いにインパクトを持つ証しとなり得る。たとえそれが個別的な状況であっても、あるいは、ときにそうあればあるほど、それは神が個人の特別な状況や問題にあえて介入してくださるということの証しであり、試練の中にある信仰者を力づけ、希望を与えるものとなり得るのである。
 ダビデも敵から攻められ、苦難の中にある自分の境遇に神が介入されたこと、及びまだ、そのときすぐには問題解決の糸口は無かったが、神は彼を決して見放さず、いつも彼と共におられ、必ず彼を苦難から救い出してくださるとの彼の信仰を詩編に書き綴った。そしてそれは、時代を越えて現代を生きる私たちの信仰を奮い立たせ、彼と同じ信仰の足跡を歩ませる力を持っているのである。
 ああしかし、それでもときとして、信仰の兄弟が語る力強い証しがそれに耳を傾ける者の心を奮い立たせることができずに、返ってその信仰を萎えさせるというようなことが起こり得るのである。それは、いかなる場合なのだろうか。それは、例えば、証しをする者が、自分に与えられた神の恵みを十分に理解せず、それを正しく伝えることができない場合がまず考えられる。その場合、聞く者は、語られる証しを聞きながらも、そこに神の哀れみと恵みを十分に汲み取ることができないのだろう。しかし、例えダビデのような詩人であっても、それを完全に伝えることが可能だろうか。否、それは困難だろう。私たちは、神から完璧な知識と人格を与えられているわけではないからである。ダビデにしても、多くの失敗をしたし、たくさんの人々の血を流したことにより、神に仕えることにおいて、神から制限を与えられたのであった。それでもダビデの詩が私たちに影響を与えるのは、そこに神の恵みが働くからであろう。そして、神をしてダビデに恵みを働かせたのは、彼の神に対する愛と忠誠であったろう。
 そこで、一つのことが言えるのではないか。つまり、私たちの個人的な信仰生活において、神の特別な恵みと導きが必要であると共に、そこで受けた恵みを証しするときにも、もう一度神の特別な恵みと導きが必要ということである。さらにもう一つ付け加えるべきことがある。それは、たぶん、その証しを聞く側にも、神の恵みが働くことが必要であろうということである。
 しかし、そこにもし神の恵みが働くことがないなら、その証しは、ただの虚しい詩歌と同じであり、彼は虚栄の詩人と成り果てるであろう。彼の語る神は、彼の考え出した偶像以外のものではないであろう。そのような虚しい証し、目的の定まらない証し、神ではなく、語る者の方が崇められるような証しが確かに存在する。「ああ、天地のあいだには、ただ詩人たちだけが何ほどか夢想しえたような諸事物が、実にたくさん存在しているのだ。そして、天上においては、とくにそうだ。というのは、すべての神々は、詩人たちの弄する比喩であり、詩人たちの詭弁であるからだ。まことに、われわれはつねに引き上げられるのだ。すなわち、雲の国へと。この雲の上に、われわれは、われわれの色とりどりのぬけがらを置き、しかるのち、それを神々とか超人とか呼ぶのだ」と。
 ただ神の栄光を讃えよ。神の御名だけが崇められることを追い求めよ。我々は、もう自分の証しに自ら酔うことをやめよう。それなら、むしろ坦々とした証しの方がまだましである。証しの詩人は、もう返上だ。今日からそれを始めようではないか。「わたしはすでに見たのだ、詩人たちが変化し、自分自身にまなざしを向けたのを。わたしは精神の贖罪者たちが来るのを見た。彼らは詩人たちのなかから生じたのだ」ツアラトストラはかく語った。

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学者たちについて

 一般的に、牧師になるためには、神学校に入って、神学を始めとして、宣教学、語学、教会論、教会史そしてときには心理学や哲学までも勉強することになる。そこで牧師は、なにがしか学者的な雰囲気を漂わせているようだ。それはまず彼が、一般信徒の知らない知識を持っているということにおいて。また、信徒が知らない伝道者の領域としての戦いを共有しているという同士的意識において。信徒の知らない各伝道者固有の牧会情報を保有していることにおいて。そして、教団の場合には、組織における固有の役割に任命されているということにおいてである。これら諸々のことが、彼らをして、学者的な雰囲気や態度を醸し出させるに十分なのである。
 もちろんこれらのものは、主イエスの大宣教命令を実行し、神の栄光を現すためのものであり、信徒との間に壁を築くためのものではない。しかし、信徒が上記の牧師固有の領域に不用意に足を踏み入れるというようなことが起こるときに、急にこの牧師と信徒の壁を意識させられることがある。それは、牧師に必要なリーダシップの確保に必要であることは認める。しかし、どうもそれだけではないように思えるのだ。そこでまず、この記事は、牧師を批判するために書いたものではないことを断っておく必要があろう。
 そうしておいて、まず感じるのは、前例のないことへの拒否感とでもいうようなものである。これは、牧会というものが失敗を許されない類の性質を持ちながらも、そこに常に実験的な要素を含まざるを得ないことによるのだろう。というのは、教会は生きていて、常に成長しているからである。次に、学問的な知識への傾注である。それはたぶん、異なる場面や異なる時間における自らの言論の一貫性を確保する必要から、何か確固たる拠り所が必要なのだろう。次に、組織への従属意識。これは、今日の教会組織が階層構造をしていることによる。そして、組織が大きく複雑になり過ぎたことにより、キリストの体としての機能と同じ、もしくはそれ以上に組織維持に労力を使わなければならなくなったからだろう。
 以上のことのゆえに、個々の牧師が牧会における非難されるべき要素を一般的に持っているものだとは言えないだろう。しかし、牧師というものが、そのような複雑な環境に置かれていることを理解するのは、意味のあることではないだろうか。しかし、学者的な人格に対してツアラトストラは語る、「彼らは出来の良い時計仕掛けである。ただ、彼らのゼンマイを正しく巻いてやるよう、心を配りさえすればよいのだ。そうすれば、彼らは忠実に時刻を示しつつ、或る控え目な騒音を立てる」と。
 今日の教会において、何かが欠けているとすれば、それは挑戦と刷新であろう。決まりきったことを繰り返していても、何も新しいものは生まれない。反逆でもなく、寄り道や迷いでもない、新しい前進が教会に求められているのではないだろうか。それが生きている教会、主の軍隊としての教会の力であり、私たちが持つ必要のあるものではないだろうか。
 「しかし、それにもかかわらず、わたしはわたしのもろもろの思想によって、彼らの頭の上を歩む。そして、万一わたしがわたし自身のもろもろの過失を足として歩んだとしても、わたしはやはり、彼らと彼らの頭との上にいるであろう。というのは、人間たちは平等でないからだ。正義はそう語るのだ。かくて、わたしが欲することを、彼らは欲することを許されないであろう」、ツアラトストラはかく語った。

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