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2010/06/01

汚れなき認識について

 聖職者の中に、それもかなり有名な人の中にも、時として醜い不祥事が発覚することがある。彼は、いったい真理を知っていたのであろうか。彼は、本当に信仰の教師だったのかと問いたくなる。しかし、信仰の内容を知っていることとそれを実践することとは、本来別のことであろう。そういう面で教師には誘惑というものが伴う。つまり、人に教えるためには、自分の所有する信仰を知識として固定し、客体化させる必要があり、そのプロセスにおいて、それを自ら理解し、認識し、評価してしまうということである。しかし、そのことにより、彼の信仰は、彼以下のものとなってしまわざるを得ないのである。彼が、良い教師であろうとすればするほど、つまり彼の信仰の客体化が完璧であればあるほど、それは彼を危険にさらすこととなるのである。
 しかし、ここに一つの疑問が湧き起こる。つまり、自分の認識した信仰を自ら行うことができないような認識、それはいったい正しい認識だったのだろうかという疑問である。否、それは正しい認識ではあり得ないだろう。しかし再び、信仰というものが詳細に認識可能なものなのかどうかということが問われてくる。そして、ここに問題の核心があるのだろう。つまり、信仰というものは、本来、それについて具体的かつ詳細な認識が難しいものなのであり、それにも関わらず、それが具体的に認識され得ると想定して、自らもそれを把握しようとし、また他人にもそれを教えようとすることは、そのこと自体が、その人が信仰というものを理解していなかったということを示しているのである。ツアラトストラは語る、「地上的なものを軽蔑するよう説得されたのは、きみたちの精神であって、きみたちの内臓ではない。だが、この内臓こそ、きみたちの身にそなわる最強のものなのだ!」と。
 私たちの従順は、どこから来るのか。日頃のデボーションで身に付けた聖書の知識からか。それとも、礼拝で聞く説教から得た知識からか。しかし、それらは共に知識である。そして、それが知識である以上、それは認識以上のものではない。そして、認識以上に強いものがある。ツアラトストラが「きみたちの内臓」と表現する、肉体的情動である。これが認識を上回るとき、これが認識を欺く力を持つ時、信仰者も醜い罪に陥る危険性の中に置かれるのである。そして、ツアラトストラがさらに指摘するのは、信仰者がそのような罪に陥らないまでも、そのような認識に先導される信仰生活は、神のために実を結ぶことがないということである。彼は語る、「しかし、きみら汚れなき者たちよ。きみら純粋認識の徒よ、きみたちの呪いたるべきは、きみたちが決して産まないであろうということだ、たとえきみたちが、ふくれ、身ごもって、地平線上に位置していようとも!まことに、きみたちはかずかずの高貴な言葉で口を満たす。そうすれば、きみたちの心が溢れていると、われわれが信じるとでもいうのか、きみら嘘つきどもよ?」と。
 私たちは、自分の信仰を、認識以上のものの上に建てる必要がある。それは、なんだろうか。それはまさに、一つの狂気である。アブラハムがその子イサクを捧げた狂気、神が一人子イエスを十字架につけた狂気、エリアが天から火を呼び降した狂気、イエス・キリストがラザロを死人の中から甦らせた狂気である。それが信仰者に来る時、信仰者は実に彼の認識を超える力を得る。そして、それだけが彼を罪から守り、神に完全に従わせるのであり、そのとき彼は、その身にキリストをまとうことになる。そして、キリストの中に自分を見出し、自分の中にキリストの知恵を見出すのだ。
 「まことに、わたしは、太陽に似て、生と一切の深い海とを愛する。そして、わたしにとっては、認識とはこういうことだ、すなわち、一切の深みをして昇って来させることだ。わたしの高みにまで!」、ツアラトストラは、かく語った。

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教養の国について

 ツアラトストラは、現代人を嘲笑して語る、「わたしの驚いたことには、五十の斑点で顔と手足を色どって、きみたちはそこに座っていたのだ、きみたち現代人たちよ!」と。「いまだかつてわたしの目は、こんなにも色とりどりの斑点があるものを見たことがなかったのだ」と。
 実際、現代には数え切れないほどのキリスト教派が存在する。それらは、いったいどこからやってきたのか。そして何のために。そう、とりわけその存在目的が不可解ではあるのだ。彼らは、「多様性は、良いことだ。それは、神の恵みと哀れみの豊かさを表している」と言う。しかし、それはどちらかというと、教派の個別的な存在意義に関する観測であり、教派が多数あるべきことの説明としては、どうもしっくりこないのである。というのも、どう見ても、現代のキリスト教界は、全体的なまとまりが悪く、多教派の利点よりもマイナス面、例えば、党派心や見解の不一致等による分派の悪影響の方が大きいように思えるのである。
 また、個々の教派を見ても、その内部が必ずしも一致団結しているというわけでもない。むしろ、その教派の特徴としての中心教理自体が空洞化し始めているということもあるのである。つまり、ほとんどの人が教理を正しく理解していないという憂うべき事態があり得るのである。しかし、なぜそうなってしまったのか。その一つの原因は、聖書以外の知識、例えば哲学への依存である。これはたぶん、キリスト教会形成のごく初期の段階から、異端に対抗するために、教理を体系化する必要性から、その認識の基盤に哲学が導入されたのだと考えられる。しかし、キリストも使徒パウロも、そのようなものを使わなかった。原始キリスト教会は、異端への対抗として、哲学を用いなかった。しかし、それだけでなく、現代のクリスチャンは、かつてなかったほどに、多くの新しいもの、すなわち「色とりどりの斑点」を身にまとっているのではないか。論理、慣習、社交、配慮、公平、共同、嗜好、趣味、合意、優越感、欲望、等々、数え切れないほどの非福音的な要素を身につけて、教会と社会を往復しているのではないのだろうか。そして、もしそれらを脱ぎ捨てるようなことがあるなら・・・、ツアラトストラは語る、「わたした、きみたちの裸身をも、衣服をまとった姿をも、見るに耐えないということ、これこそ、じっさいこれこそが、わたしの臓腑にとっての苦痛なのだ、きみら現代人たちよ!」と。
 実際、私たちは、これらの色とりどりの衣を身につけていて、主イエスとの活きた交わりなど、とてもできる状態ではないのである。ああ、私たちは、どこかへか帰らなければならない。かつて、何も余計なものを身にまとっていなかった、あの簡素で清貧な状態へと。そのとき、私たちは、主イエスとの本当の交わりを取り戻すことだろう。そして、それこそが私たちの力であったのであり、それをこそ私たちは、もしかしたら、失ってしまっているのである。
 ツアラトストラは語る、「そうだ、どうしてきみたちは信仰を持ちうるはずがあろう、きみら色とりどりの斑点がある者たちよ!きみたちは、かつて信仰された一切の事柄の絵画なのだ!きみたちは、信仰そのもの、足のある生ける反駁であり、一切の思想の挫傷である。信仰を持つに値しない者たち、このようにわたしはきみたちを呼ぶのだ。きみら現代的な者たちよ!」。ツアラトストラは、かく語った。

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