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2010/05/25

すみれ

Sumire これは、散歩のときにみつけた野生のすみれ。きみは、花だけじゃなくて、茎や葉っぱのふちまですみれ色なんだね~。

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崇高な者たちについて

 クリスチャンは、一般人の目には、清い人々と映るかも知れない。しかし、この「清い」という表現がときには、多少の軽蔑をも込めて発せられることもあるようだ。それは、むしろ「無垢」という意味に近く、ときには「無知」に近い意味だったり、「無頓着」、「無能」というようにエスカレートしている場合もあるかもしれない。しかし、クリスチャンをそのように見る人は、何をもってそのように思うのだろうか。たぶん、キリスト教の持っている排他性が関係しているように思われるのである。彼らクリスチャンは言う、「すべての人に」と。しかしそのとき、結果的にわずか5%にも満たない人々が対象となっているのであり、そのような狭き門を建てたのが他でもない彼ら自身の教理であることを理解していないのである。そして、それにも関わらず、彼らはそれを「愛」と呼んで譲らないのである。そこにも幾ばくかの真理が宿っていることを認めないわけでもないのだが、彼らに滅ぶべき人々を思って泣く心がどれほどあるのかと問いたくもなるのである。一方、そもそも一般の人々は、この「天国と地獄」という構図に興味さえ持っていないのである。そこでそれを根拠にした福音を語るクリスチャンは、無慈悲かさもなくば無知、無感覚、あるいはKYということにならざるを得ないのである。そして、それに多少なりとも自ら気づいている者は、隠れキリシタン的になったり、そこまでではないにしても、信仰と実践の間の矛盾を気にしながら、伝道については、すべて牧師に任せて、自らは陰のように教会生活を送るというようなことにもなりかねないのである。
 しかしこのように、自らの矛盾の中に甘んじて留まっているクリスチャンは、まだ良い方である。というのは、いくらかのクリスチャンは、あえてこの矛盾を解決しようとするからである。しかしそのためには、教理になにがしかの修正を施さざるを得ない。それを彼らは、「聖書の解釈」とか「適用」と考える。しかし、そのような都合の良い修正を施したものがはたして神の言葉と呼べるだろうか。そして、そこから帰結する、何の犠牲も伴わない行為が信仰から出たものと言えるだろうか。救いの門は広げられ、律法の基準は下げられ、結局のところ、キリストの購いは無用の長物となる。それゆえ彼は、万人が神に近づく道を備えたと思いながら、結果的にらそれを閉ざしたのである。ツアラトストラは語る「彼は怪獣どもを征服し、もろもろの謎を解いた。しかし、彼がさらに、みずからの内部にひそむ怪獣どもや、もろもろの謎をも救済し、それらをさらに天界の子供たちに変化させるというようであってくれたらよいのだが」。
 私たちが目指すべきは、聖書をあれこれと粉ね回すことではない。あるいは、それが崇高なことだと勘違いされてきた傾向があるかもしれないが。私たちが聖書を理解する方法は、ただ一つ、それを生きることである。すべての人間的な配慮と画策とを捨てて。それが、神の前で自らの魂を飾る唯一の方法なのである。「そうだ、きみ、崇高な者よ、きみはさらに、いつの日にか美しくなって、きみ自身の美の前に鏡を置くべきだ。そのとき、きみの魂は、もろもろの神々しい欲望におののくであろう。そして、きみのうぬぼれのなかにすら、崇拝の気持ちがこもっているであろう。というのは、魂の秘密はこうであるからだ。すなわち、彼女(魂)を英雄が見捨てたときに、初めて、夢のなかで、彼女に近づくのだ、超英雄が」、ツアラトストラはかく語った。
 

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