« 2010年5月19日 | トップページ | 2010年5月25日 »

2010/05/20

自己超克について

 人間には、絶えず自己を刷新しようとする衝動がある。それは、良い意味で「真理への意志」と呼ばれ得るかも知れない。しかし、そのように認識された一見自然的な意志の持つ目的を冷静に考えてみると、その根底に実は「権力への意志」が横たわっているとツアラトストラは指摘する。この「意志」は、真理の認識のために、自分自身さえもその前にひざまずき得るような世界すなわち「哲学」を創造しようと意志する。しかし、それにひざまずくべき者は、彼一人に留まらない。そればかりか、実にすべての存在者が彼の哲学を肯定し、それを受け入れ、その前にひざまずくことを彼は欲しているのである。「もちろん、おまえたちはそれを生殖への意志、あるいは、目的への、より高いものへの、より遠いものへの、より多様なものへの衝動と呼ぶ。しかし、これらはすべて、一つのことであり、同一の秘密なのだ」とツアラトストラは言う。
 そして、彼がさらにするどく指摘するのは、この「権力への意志」が実は「自己超克への意志」だということである。というのは、「権力への意志」は、自分より弱い者に対して服従を要求するに留まらず、やがて自分よりも強い者さえも、ときにはより強い者を利用してまで、自分に従属させようと企てるに至るからである。そして、その最たる対象、つまり彼が超克すべき最後の対象とは、実に彼自身であるからである。
 まことに何人も、このような世界構造を前にしては、たじろがざるを得ない。彼が常に彼自身の同士であり、同時にまた敵でもあるということ。彼が彼自身に仕える者であると同時に、また支配者であるということにである。そこで、彼の戦いは、何か彼の外から攻めて来るようなものに対してではなく、実に彼自身に対するものであることが分かる。彼の存在は、この矛盾に釘付けにされているのであり、それから逃れる術はないのである。しかしそれは、いかにして解決され得るのだろうか。まず、彼の内で価値観の転換が起こらなければならない。彼が不完全な者、途上にある者、この世界をさまよう者であるという認識が変わる必要があるのである。それは、アダムがエデンの園を追い出されたときに獲得した価値観であった。この価値観が崩れない限り、彼の中の矛盾もまた生き続けるのである。
 しかし、キリスト者については、どうであろうか。彼は、この価値観を克服しているだろうか。聖書においては、この価値観はいつ克服されたのだろうか。それは、神がキリストにすべての権威を与えられたときである。そのときから、アダムとエバが知ってしまった「善と悪」という価値観は、消失したのである。今あるのは、主イエスを信じ彼に従うかどうかという価値観である。そこには、すでに「善と悪」というものはない。そこで、もし信仰者がまだこの価値観を持ったままで、兄弟を裁いたり、自分の生き方を選択するということがあるなら、その場合には、彼はまだ自分を超克しようとしていることになるのである。
 「善と悪とについてのきみたちのもろもろの価値と言葉とによって、きみたちは暴力をふるう、きみら価値評価をなす者たちよ。そして、このことが、きみたちの隠れた愛であり、きみたちの諸価値のなかから、或るより強烈な暴力と或る新しい超克とが芽ばえてくる。それによって、卵と卵の殻とは砕けるのだ。かくて、善と悪との創造者たらざるを得ない者、まことに、この者はまず破壊者となり、諸価値を破砕しなくてはならないのだ」、ツアラトストラはかく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年5月19日 | トップページ | 2010年5月25日 »