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2010/05/19

墓の歌

 「律法によらなければ、私は罪を知らなかった」(ローマ7:7)とパウロは言った。善悪を知る木の実を食べなければ、アダムも罪を知らなかったに違いない。つまり、この世界に善悪の判断を持ち込んだのはキリスト教であり、従って悪という概念を創り出したのもキリスト教なのである。そして、もしそのようなことがなければ。罪というものも存在せず、従って死もなかったことになる。いったいどうして神は、そのようなことをされたのだろうか。そもそも死というものがない世界には、また病や犯罪等もあり得なかったであろうに。そのようにして、そこは永遠に楽園であったであろうに。そのようにも思われるのである。しかし、本当にそうであろうか。もし神がアダムに戒めを与えられなかったなら、彼と神は何の関係も持ち得なかっただろう。彼は死ぬことがないのだから。そこで、戒めは人が神と関係を持つために与えられた最小の束縛と言えよう。それを人が守りさえすれば。しかし、彼はそれを守らなかった。彼は、どんな戒めも守りたくなかったのである。
 神が「戒め」を導入されたということは、この世界に「終わり」が設定されたということである。というのは、戒めというものの性質上、それが破られる可能性がゼロということはない。破られる可能性があるからこそ戒めなのである。そして、破られる可能性のあるものは、無限の時間の前には、必ず破られることになるのである。それゆえ、すべてのものが有限とならなければならない。そうでないと、完全なものがなくなってしまう。戒めがある以上、人がそれを守り通して人生を全うできるためには、人生が有限でなければならない。有限の時間の中ならば、戒めを守ることも可能なのである。
 そこで、もし戒めを好まない、すなわち神との関係を好まない者がいたとすれば、その人は、この世界に秩序を、善悪を、そしてそれに対応した有限を導入した神を呪うであろう。しかしその呪いは、本当は神よりも、神の意志を肯定する者たち、すなわちクリスチャンに向けられているのである。彼らクリスチャンは、自分たちに有限性という限りない不利益をもたらした神に盲目的に同意するばかりか、物事の深い意味も分からないままに、その成り行きを鵜呑みにし、吹聴することにより、苦労して独力で秩序を構築してきた者たちの努力の一切を虚しいものと宣言したからである。
 「この呪いは、きみたちに対するものなのだ、わたしの敵たちよ! けだし、きみたちは、寒い夜なかに物音が砕けるように、わたしの永遠的なものを束の間のものたらしめたではないか! この永遠的なものがわたしに来たるや、ただわずかに、神々しい両目のまたたきとしてにすぎなかったのだ、瞬間としてにすぎなかったのだ! 殺人的な歌い手よ、悪意の道具よ。こよなく無邪気な者よ! すでにわたしは、地上の舞踏をなすべく、用意を整えていた。そのとき、きみはきみの音声で、わたしの恍惚の境地を殺害したのだ!」とツアラトストラは語る。しかし彼は、クリスチャンを呪いつつ、ただいたずらに死を待っているのではない。いまや彼の歩む道は、この与えられた有限性の中で永遠に生きることなのである。それは、実にこの世界に神の秩序が存在しないと想定し、堅く信じること、つまりキリスト教倫理の外で生きることなのである。そしてその体系は、実に神無しに機能する。それは、キリスト教の外にある完全に閉じた体系なのであり、彼は、この有限性の中に無限の世界を雄々しく再創造しようとするのである。
 「そうだ、今なお、おまえはわたしにとって、一切の墓の粉砕者なのだ。すこやかであれ、わたしの意志よ!そして、かずかずの墓があるところにのみ、もろもろの復活がある」、ツアラトストラはかく語った。

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