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2010/05/18

舞踏歌

 ツアラトストラが踊っている少女たちと出会ったとき、少女たちは踊りをやめたが、ツアラトストラは自ら歌を歌うことにより少女たちに踊りを続けることを願った。しかし、そのとき彼が歌ったのは、凡人には理解できないような自らの生に対する悩みの歌であった。
 この世界を生きる者にとって、一番の困難は、彼の内在性である。つまり、彼は自分が理解しようとする世界の内側に生きているのである。それゆえ、彼自身もこの世界の構成要素なのであり、彼がこの世界を理解するためには、実際にそこを生きる必要があるのである。そして、「生きる」とは、「有限性の中で活動すること」であり、それを超克することは許されない。もし彼が、彼の生きている世界を超克するなら、彼はもはやその世の中に生きているのではないことになるのである。
 キリストは、神であられたが、その生涯の最後までこの内在者としての制限の内に留まることを良しとされた。たとえ彼が、超知識的な預言の言葉を語ったり、奇跡を行ったりしたのだとしても、それは内在者として許される範囲、すなわち神が今日の私たちにもそれを許される範囲で行われたのである。しかしツアラトストラの場合は、事態はキリストの場合と逆になる。すなわち、キリストが神としてのご自身の可能性を自ら放棄して、内在者となり、その制限の中で、全能者としての使命を完遂したのとは逆に、ツアラトストラは自身の人としての有限性から彼の目的としての超人へ到達しようとするのである。そしてキリストが、彼自身神でありながらも、その内在者としての有限性の内に、その御業を完遂したのであるがゆえに、ツアラトストラにおいても彼の目的の完遂が原理上は可能なのである。そして、それを罪の教説のゆえに不可能とするのがキリスト教の立場なのである。
 キリストは、その生涯において、激しい祈りと魂の叫びにより、父なる神に嘆願し、それゆえに聞き入れられた。ツアラトストラも、この世界を生きながら苦しみもだえ、思索し瞑想しながら、その有限性の中で漸進的に自己を超克しようとするのである。しかし、もし彼がキリスト教の提供する倫理性の中で超人に到達しようとしてもそれは不可能である。キリスト教倫理には、解は一つしかない。すなわち罪の赦しである。そこで、もしツアラトストラが内在者として独力で超人に到達することがあり得るとしたなら、彼は、キリスト教的な倫理観の外でそれを達成する必要がある。むろんキリスト教は、その可能性は無いと断言する。しかし、キリスト教にしても、この世界においては、悪魔の存在が許されているのである。つまり、キリスト教倫理以外の世界の存在の余地が与えられているのである。そして、それが無であることが証明されるのは、「終わりの日」なのであり、私たちはそれを信仰によって受けとるのであり、論理でも倫理でもないのである。それゆえ、私たちは、聖書をもってしても、神学をもってしても、ツアラトストラが語る超人の思想に打ち勝つ論証をすることはできない。その存在が、今この世界において許されている間は、私たちが持つことのできるのは、ただ信仰のみなのである。そして一方、ツアラトストラには、内在者としての彼自身の存在性しかないのである。
 「ああ、かくていまや、そなたは再びその目を開いたのだ、おお、わが愛する生よ!かくて、わたしには、自分が再び、底の知れないもののなかへ沈み込むかに思われた。或る未知のものがわたしのまわりにあり、深い思いをこめて眺めている。なんたることだ!おまえはまだ生きているのか、ツアラトストラよ? どういうわけで? なんのために? 何によって? どこを目差して? どこで? いかにして? まだ生きているのは、愚かなことではないか? ああ、わたしの友たちよ、わたしのなかからそのように問うのは、夕暮れである。わたしに許せ、わたしの悲しみを!夕暮れになった。わたしに許せ、夕暮れになったことを!」 ツアラトストラは、かく語った。

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頭がボーっとして真剣に考えなくなる

第二テサロニケ 2:13

【新改訳】
 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

【新共同訳】
 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

新改訳によると、神はテサロニケの信徒たちを「初めから」お選びになった。そして、「によって」とあることから、その条件は、彼らの「御霊による聖め」と「真理による信仰」ということになる。しかし、それでは「初めから」という表現と時間的に矛盾することになる。
そこで、新共同訳を見ると、「救われるべき者の初穂として」となっている。こちらは意味が通る。つまり、「テサロニケ地域における救いの初穂として」という意味にとれるのであり、こちらの方が適切だと思われる。

しかし、念のためKing James訳を見ると、

But we are bound to give thanks alway to God for you, brethren beloved of the Lord, because God hath from the beginning chosen you to salvation through sanctification of the Spirit and belief of the truth:

となっており、「from the beginning」と書かれていることから、新改訳の「初めから」という訳し方にも根拠があるように思われる。しかし、この英語を良く読むと、むしろ「あなたがたが聖霊の聖めと真理への信仰を通して救われるように最初から選ばれた」と読むべきであることが分かる。

つまり、いずれにしても、新改訳の訳は、幼稚な訳であると言えるのではないか。とにかくあれでは、信徒が読んでも明瞭に意味が汲み取れず、常時デボーション等でこのような訳を読み続けると、「もう細かいことはどうでもいいや。とにかく聖書は正しいということなのだから、今に分かるかもしれないから、とりあえずこのままにしておこう」という姿勢を植えつけるに十分である。それなら、新共同訳の方がずっと良いと思う。King James訳と比べて異なっていてもである。それは、たぶん原語のギリシャ語においても、判然としない部分なのだと思う。
 とにかく、私は、信徒が一人で聖書を読むときに、意識がボヤーっとなるような曖昧な、意味の通らない表現の頻発が新改訳聖書の特徴であり、それが信徒に聖書と真剣に向き合うことを著しく妨害しているように思えてしょうがないのである。そしてそれは、たぶんきっと、悪魔の意図なのだと思うのである。

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