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2010/05/14

夜の歌

 あのゲッセマネにおけるできごと、すなわちキリストが捕らえられたのは夜であった。そのとき主イエスは、3人の弟子たちをそばに置き、自分と共に目を覚ましていて、その恐ろしい夜を共にするように求めた。彼を襲っていたのは、その夜の暗黒のような孤独感であった。彼は、その公生涯において、自分の持っていたものを人々に分け与え続けたことにより、自ら虚しい存在と成り果てたのである。
 山における長年の修行の後に下界へ降りてきたツアラトストラも丁度そのようであった。「わたしは受け取る者の幸福を知らない。わたしの手が決して休むことなく贈与し続けること、これがわたしの貧困である。わたしが数々の待ちもうける目を見ること、また憧憬の夜の数々が明るく照らされているさまを見ること、これがわたしの嫉妬である」とツアラトストラは語る。
 偉人たちは、実に世の闇に輝く一つの光である。しかし与える者には、一つの不幸があり、それは決して拭い去ることができない。彼は自分自身を与える。自分の信念に従って、あるいは自分の使命に従って。そして彼は、自分の蒔いた種の結実を期待する。しかし一方で、受け取る側は、それらを自分固有の状態に応じて受け取る。ときには意図されない受け取り方で。そしてそれは、与える側ではどうすることもできないことなのであり、それが与える者としての彼の宿命なのである。「彼らはわたしから受け取る。しかし、わたしは果たして彼らの魂に触れているだろうか。与えることと受け取ることとのあいだには、一つの裂け目がある。そして、最小の裂け目こそ、いちばん橋渡ししにくいのだ。おお、すべての贈与する者たちの、この上なき不幸よ!おお、わたしの太陽の日食よ!おお、熱望することへの熱望よ!おお、満腹状態における激しい飢えよ!」とツアラトストラは叫ぶ。
 贈与する者は、与えることによって喜びを得る。しかし、その喜びはどこから来るのか。その与えるという行為が単なる彼の意志や決意だとしたら、それはまた容易に崩れさり、彼と共に消滅する運命にある。その行為が本物であり、永続的なものであるためには、それが彼の使命以上のものとなっていなければならない。しかし、再びそれが彼自身の決めた使命であったなら。その場合もそれは永続性を持つことはできない。それが永遠のものとなるためには、その使命が永遠の存在を起源としたものとなっていなければならないのである。しかしもしそうでないなら、彼の「与える」という行為は、彼自身にとっては、あくまで「与えること」以上のものとは成り得ず、彼はまさに自分自身の行為により、虚しい存在と成り果てる運命にあるのである。それは、人という存在が「与えるだけ」の存在ではなく、彼の与えるという行為の実を期待するのだが、一方受け取る側は、それにより充足するということがなく、つねに過渡的な状態に留まっているものだからである。
 あのゲッセマネにおけるキリストも、眠り込んでいる弟子たちを前に、人間的には、まさにそのような状態であった。しかし、キリストは人間であると同時にまた神であった。贈与する者であると同時に、創造であり、万物の起源そのものであったのである。それゆえ彼は、「与え尽くす者」としての彼の生涯を全うしたのであったが、それだけではなかった。その一連の贈与により、彼はそれまで存在しなかった新たなものを創造したのであった。
 そこで、贈与する者の行為が虚しいものにならず、それがこの世界において、彼の死後においても意味を持ち続けるかどうかは、彼がそれらの贈与という行為において、単に与えるだけでなく、新しいもの、それまで存在しなかった何ものかを創造できるか否かにかかっているのである。
 「きみら暗黒の者たちよ。きみら夜めいた者たちよ、きみたちこそが、初めて、照らすものから熱を生みだすのだ!夜だ。ああ、わたしが光たらざるをえないとは!そして、夜めいたものへの渇望よ!そして、孤独よ!夜だ。いまや、泉のように、わたしのなかからわたしの熱望が溢れ出るのだ。わたしは話すことを熱望するのだ。夜だ。いまや、ほとばしり出る泉のすべてが、一段と声高く話すのだ。そして、わたしの魂もまた、一個のほとばしり出る泉である。夜だ。いまや初めて、愛する者たちの歌のすべてがめざめるのだ。そして、わたしの魂もまた、一人の愛する者の歌である」、ツアラトストラはかく語った。

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