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2010/05/13

著名な賢者たちについて

 「著名な賢者」とは、宗教上の指導者を指して言っているのだろう。「きみたちは民衆に奉仕し、民衆の迷信に奉仕したのであり、かくて、真理に奉仕したのではない」とツアラトストラは語る。そしてそれは、皮肉であると共に、一方ではまた必然でもある。というのは、賢者が賢者と呼ばれるためには、彼は民衆に対して成す、何らかの奉仕を持っている必要があるからである。しかも、その奉仕が独善的なものではなく、民衆一般に納得の行くものである必要がある。しかし、彼がそのように民衆に接近するとき、一つのことを見い出すのである。それは、民衆の持つ多様性である。この多様性を善と見るか悪と見るかで、彼の性格は大きく異なって来る。それを善と見れば、彼は実存主義的傾向を持ち、個別性の中に真理を見ようとする。一方それを悪と見れば、彼は理想主義的となり、個性というものを無視する傾向を備えることになる。しかし、それらのどちらの存在も賢者とはなり得ない。もし賢者になろうと欲するなら、彼自身はそのような善悪の区別を認識しながらも、それを払拭していなければならないのである。そうでなければ、彼は民衆から受け入れられることができず、民衆を指導することもできず、したがって賢者と呼ばれることもないのである。
 そこで賢者とは、ある意味で、民衆に取り入ろうとする偽り者的な側面を持っていると言えるかもしれない。しかし、ここに一つの救いがある。それは、我々が時間の中に生きていることによる。つまり、賢者の場合、そのように真理から離れて、民衆に接近しているのは、ひとえに民衆を導くために他ならず、それは一時的な状態に過ぎないのであり、そしてそのことは、民衆自身も承知していることなのである。
 しかし、そのように民衆と真理の間を往復しているような状態の賢者自身は、はたして本当に真理を知っていると言えるだろうか。あるいは、そういうこともあるかもしれない。もし真理がそのようなものであるのなら。しかし、もし真理が「単に知るもの」ではなく「それを生きるもの」であるとしたらどうだろう。かの賢者は、すなわち宗教上の指導者は、実は真理を知っていないということにはならないだろうか。つまり彼は、真理に関する知識を持っていながら、自らそれを生きることができずにいるのである。しかしそれは、いつまでであろうか。彼が賢者である限りにおいてそうなのである。それゆえ、彼は賢者である間は、真理を生きることができない、すなわち「真理に奉仕できない」とツアラトストラは言うのである。
 まことに何人も、すなわち宗教上の指導者も、この時間性の世界を生きている限り、真理を知っている賢者とは成り得ないのである。それゆえに、キリストは人々から見捨てられて、十字架に架かったのである。
 「わたしの見るところでは、きみたちは、威儀を正し、四角ばり、背中をまっすぐにして、突っ立っている、きみら著名な賢者たちよ!きみたちは強烈な風ないしは意志にかりたてられることがないのだ。一つの帆が、丸くふくらんで、風の激しさに震えながら、海を越えて行くのを、きみたちは見たことがないのか?この帆のように、精神の激しさに震えながら、わたしの知恵は海を越えて行くのだ、わたしの荒々しい知恵は!しかし、きみら、民衆の奉仕者たちよ、きみら著名な賢者たちよ、どうしてきみたちはわたしといっしょに行くことができよう!」ツアラトストラはかく語った。

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