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2010/04/30

アリス・イン・ワンダーランド

Alice 今日は、久しぶりに家内と映画を見た。話題の3D映画「アリス・イン・ワンダーランド」である。伝統的な作品には、哲学的な根本問題が提起されているものが少なくない。この作品も、原作とはかなり異なった脚色になってはいたが、それは保存されていたようだ。それは何かというと、「私が住んでいるこの世界は実在するのか」という問題提起である。たぶん、そんなことを考える人は、ほんの一握りの人に違いない。しかし、それは私たちがこの世界で充実した人生を歩むために必要な確信なのである。この確信が揺らいでくると、人生がどうでも良くなってしまい、引きこもりや精神分裂、躁鬱症等、様々な異常な状態が現実化してくる。しかし一方でこれは、またどのようにしても証明することのできない事柄でもあるのである。
 この映画においては、アリスは迷い込んだ不思議な世界において、自分の近い将来の姿を告知される。それは、白の王国のために恐ろしい獣と戦い、それを打ち破ることであった。彼女は、その自分の姿を夢の中のこと、つまりどうでも良いこととして、その恐ろしい現実から逃げていた。しかし、その世界を生きるうちに、それが自分の夢である限り、そこから逃げてはいけないと思うようになった。そのとき、その世界は彼女にとって現実の世界となったのである。
 私たちがこの世界に復帰し、それを真に取り戻すのは、哲学的な証明によるのでも、賭けによるのでもない。それは、外界を取り戻すということではなく、実に自分自身を取り戻すということなのである。そこがたとえ幻想の世界、夢物語であろうとも、そこを生きている自分を失わないこと、それこそが確かなことなのである。というのは、たとえ自分が生きている世界が実在する現実であると証明できたとしても、そこを真剣に生きられないなら、またそこから逃避しようという願望が少しでもあるなら、それは幻想と変わりないのではないだろうか。しかし、たとえそこがアリスの踏み込んだ国のように超現実的な世界であろうとも、そこを真実な心で、目をそむけることなく、逃げることなく生きることができるなら、それは、その人が確かにそこに存在していたという一つの現実なのであり、それこそが彼自身が存在するということなのである。そして、それは再び、信仰という、世の人々から見れば、まるで幻想のように見えるこの世界を生きる私たち信仰者のアイデンティティでもあるのである。

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賤民について

 ツアラトストラは驚愕して語る、「何だって?生は賤民をも必要とするのか?」と。彼の言う「賤民」とは、「卑しい民」、「卑しくされた民」、「自ら卑しくなった民」であり、「この世的な利害に執着する人々」のことである。
 聖書もそれらの人々のことを様々な表現で記している。「異邦人」、「世の人々」、「世」、「毒麦」、「滅びに定められた者」等々、程度も様々であり、その状態から将来における神への帰依が想定されている場合もそうでない場合もある。いずれにしても、その状態は、著しく神から離されている状態なのである。そして、上のツアラトストラの驚愕の意味は、そのような人々を神がすなわちこの世界が必要としているということに対してなのである。
 主イエスは言われた、「毒麦を抜こうとしないで、刈り入れの日までそのままにしておきなさい」と。神もまた、かつてルシファーと共に反逆した天使たちを即座に滅ぼすことをされず、返って神の敵となり、世の人々を惑わし、聖徒たちに戦いを挑むことを許された。それは、世の人の心の思いを知るため、それをもって彼らを試みるためであり、聖徒たちを試練の火によって練り清めるためであった。そのような意味で「生は賤民をも必要とする」のである。
 しかし、「必要としている」ということが何を意味しているか、ということを良く考える必要がある。つまり、「それは主役ではない」ということなのである、むしろそれを必要としている当の者こそが主役なのである。それは誰だろうか。そう、それは私たちなのであり、私たち信仰者こそがこの世界の主役なのである。
 このことが、信仰者自身をも含めた現代人の心に、ほとんどおとぎ話のように響くということこそが、今日私たちが置かれている状況の深刻さを表しているのである。まことにこの世界は、依然として悪魔の権力の下にあり、悪魔に媚びへつらう人々、すなわち「賤民」によって牛耳られているように見えるのである。
 しかし、真の信仰者にとっては、すなわち真心から主イエスに従う霊の勇者にとっては、目に見える状況は、何の意味も持っていない。彼らにとっては、真実とは、「主イエスが勝利を取られた」ということであり、この事実こそが新しい天地の創造に匹敵するできごとなのである。そして、その上で再び、「生は賤民をも必要とする」ということが言われ得るのである。それはいったい何のためなのか。二つのことのためである。一つは、「悪魔の手から救い出す対象としての賤民」であり、それが私たちに主イエスが命じられたことなのである。またもう一つは、「打ち破る敵としての賤民」である。「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」と書いてある通りである。私たちが主イエスを信じて信仰の中を歩むこと自体が彼らの裁きとなるのである。なぜなら、そこには、彼らが喜ぶこの世的な快楽も、彼らが頼りにする、慣れ合い的な人間関係も、社会経済の力学や法則も存在しないからであり、世界は終末に向けて、そのように動いてゆこうとしているからである。
 「まことに、われわれがここに用意しているのは、不潔な者たちのための住まいではないのだ。われわれの幸福は、彼らの身体と彼らの精神にとっては、氷の洞窟であることだろう。かくて、われわれは、強風のように、彼らの頭上で生きることを欲する。ワシたちの隣人、雪の隣人、太陽の隣人として、このように強風は生きるのだ」、ツアラトストラは、かく語った。

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