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2010/04/29

有徳者たちについて

 諸宗教は、それぞれの「徳」について教える。されば、キリスト教は何と教えるか。聖書には、「互いに愛し合い、重荷を負い合いなさい」、「夫よ、妻を愛し、いたわりなさい」、「妻よ、夫を敬い、従いなさい」等々とある。しかし、それらは「徳」と言えるだろうか。否、それは「戒め」であり、「徳」そのものではない。しかし、それらの戒めに着目し、その実践を徳と考える人々がいる。そう、それは教派ではなく、人々なのであり、そのような人々は、キリスト教諸派の中に散在しているのである。ツアラトストラは、そのような人々に向かって語る、「きみたちはやがて支払いを受けることを欲しているのだ。きみら有徳者たちよ。きみたちは徳の代償に報酬を、地の代償に天を、きみたちの今日の代償に永遠を、欲しているのか?」と。
 ツアラトストラはさらに語る、「そこには、報酬係も支払係も存在しない。またまことに、わたしは、徳が徳自身の報酬と教えることさえしない」と。そのような「報酬と刑罰」という概念は虚偽だと彼は主張する。それが信仰の根底に、従って魂の根底に持ち込まれているということがである。これに対して、キリスト教は、いかに答えるべきか。つまり、戒めを破る者が、信仰者自身の中にいるという矛盾に対して、どう説明したらよいのか。というのは、戒めの実践を徳として規定することは、それを守れない者(彼らもキリスト者である)にとっての諸刃の剣ともなるからである。それゆえ、ツアラトストラは語る、「きみたちの徳のなすわざはすべて、消滅する星に似ている。その光は依然として途上にあり、旅を続けている。かくて、それがもはや途上にあることをやめるのは、いつのことであろうか」と。
 自分の力で徳を実践しようと思う者は、決してそれをすることはできない。私たちは私たちであり、徳ではないからである。徳を自分の内に探す者、形作ろうとする者は、必ず挫折せざるを得ない。ツアラトストラは語る、「きみたちの徳がきみたちの自己であること、かくて何か外来のものとか、皮膚とか、虚飾とかでないこと、これこそ、きみたちの魂の根底からする真相なのだ。きみら有徳者たちよ!」。
 私たち信仰者は、「戒め」というものの意味をもう一度考え直す必要がある。それは、「学び、守るもの」ではない。「守らせていただくもの」なのだ。つまりそれは、「自分の努力で守るもの」ではなく、それは言わば「主イエスと共に生きるときの課題」なのである。すると徳とはなにか。この徳とは、実に主イエスご自身なのである。私たちの徳は、確かに私たちの内にある。しかし、それは私たちではない。それは、私たちの内におられる主イエスなのだ。そしてそれは、再び私たち自身である。主イエスは、教会をご自身の体とされたのであり、それゆえ私たちは、教会に属する限りにおいて主イエスの体だからである。
 私たちは、自分の思いや力で徳を追求することをやめ、すべて主から示されたところに従って歩むべきである。そのためには、いままでの聖書の読み方をあきらめる必要があるかもしれない。いままでのような、ただ聖句を暗記して安心するような読み方をである。私たちは、常に決断を持って聖書を読む必要がある。そこに書かれていることを実行するという決断である。それは、あるいはつらいことかもしれない。それにより、聖書を読むことがこれまでのようには楽しくなくなるかもしれない。しかし、きっとあなたは発見するだろう。それこそが主イエスに従うことであり、つまり彼を愛することなのだということを。
 ツアラトストラは語る、「まことに、わたしはきみたちから、たしかに百の言葉と、きみたちの徳の最愛の玩具のかずかずとを奪った。そこできみたちは、子供たちが腹を立てるように、わたしに腹を立てている。子供たちは海辺で遊んでいた。そこへ波がやって来て、彼らからその玩具を海底へ引っさらって行った。そこで、彼らは泣いているのだ。しかし、同じ波が、彼らにかずかずの新しい玩具をもたらし、かずかずの新しい多彩な貝殻を彼らの眼前にぶちまけることであろう。こうして、彼らは慰められるであろう。そして、彼らと同様に、きみたちもまた、わたしの友たちよ、きみたちに慰めを与えるものを、かずかず手に入れることであろう、かくて、かずかずの新しい多彩な貝殻を」。ツアラトストラは、このように語った。

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