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2010/04/23

聖職者たちについて

 かつてイスカリオテのユダは、イエスを裏切って律法学者たちに売った。なぜユダは、裏切ったのか。それは、イエスが行っていることの意味が見えなくなってしまったからである。ユダに見えていたのは、次のことであった。すなわち、始めのころは、イエスは革命家として成功していたが、いまはその計画も失敗し、破滅寸前であるということであった。そして、なぜそうなったのか、彼には理解できなかった。そして彼は、結論を出した。つまり、イエスはそれだけの人間だったのだと。
 私たちキリスト者は、この主イエスの業を引き継いでいるのである。そこで、世の人には、私たちのことが決して理解できない。私たちが信仰と呼んでいるものが、世の人には、作り話に見えるのである。「わたしにとって、彼らは囚われびとであり、烙印を押された者なのだ。彼らが救済者と呼ぶ者が、彼らに手かせ足かせをかけたのだ」とツアラトストラは言う。
 しかしそれでは、私たちにはそれが見えているのか。否、実は私たちにも定かには見えていないのである。それゆえ、信仰が必要とされるのである。それでは、私たちにそのように信じさせるものはなにか。実にそれも定かには分からないのである。強いて言えば、それは私たちが主イエスの復活を信じたところから始まっているのである。しかし、使徒の時代には確かであったこの復活信仰が、どのようにして今日の私たちにも確かなものになっているのかということについては、やはり定かには分からないのである。そして何はともあれ、この復活信仰から、様々な力強い信条や教理、奨め、励まし等々が矢継ぎ早に出て来るのだが、それらは未信者にとっては、ほとんど狂気の沙汰なのである。「まやかしの諸価値と、もろもろの妄想的な言葉。それこそ、死すべき人間たちにとって最悪の怪物どもなのだ」とツアラトストラは語る。
 そこで、もし私たちがこの「復活信仰」に発する信仰要素をもって、世の人々と渡り合うなら、その人はこの世という土俵の中の狂人と見なされてしまうだろう。そして、この狂人に対して世の人々が浴びせる罵倒が、余計にその狂心を燃え上がらせるようなことにでもなれば、それはもう、手の付けられない悪循環となろう。
 それでは、どうすれば良いのか。しかし、まさにそのことこそ、私たちがもっとも考えてはいけないことなのである。それを考える力は、私たちに与えられてはいない。もし私たちが動けば、それは私たちが作り出したことになり、偽りとなるだろう。私たちは、自分の信じていることの十分な根拠を持ってはいない。それは、地上的なものではなく天的なものであるから。かつてキリスト教のリバイバルが起きたとき、どのような伝道が行われたかを思い起こす必要がある。彼らは、決して自分たちの立場を弁護したりしなかった。伝道計画さえ満足には立てられなかったのである。そして、それこそが、復活のキリストが、いま正に私たちと共におられるということの証拠なのであり、そのことの中にこそ、この末の時代の人々の心を動かす可能性があるのである。
 「おお、この偽造された光よ、このしめっぽくされた空気よ。魂がその高みをめざして飛ぶことを許されない、この場所よ。・・・・かくて、清く澄んだ天空が再び、こわれた天井のあいだからのぞき、くずれた壁のほとりの草や赤いケシを見おろすとき、初めてわたしは、この聖職者たちの神のすみかに、再びわたしの心を向けよう」、ツアラトストラは、かく語った。

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