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2010/04/21

同情深い者たちについて

 「神は死んだ」とニーチェは言った。「神は、人間に同情したために死んだ」のだと。
 しかしこの「神は死んだ」とは、不思議な表現である。神は、その定義上死なないものだからである。そのような不死身の存在がもし「死んだ」と言われることがあるとすれば、その意味を順当に捉えようとする限り、「神は、その効力を失った」という意味と捉えることができよう。しかし再び、全能の神が効力を失うということがあり得るのだろうか。それがあり得るのである。神の側の愛がいかに大きくてそれが永遠であろうとも、もし人の心が神に向くことがなく、神を避けてしまうなら、神の側からは、もはや人に近づく方法はなくなってしまうだろう。もちろん、パウロの回心のように、神の側から積極的にしかも超自然的なアプローチが行われる場合もあるようである。しかし、それでもパウロが執拗に神を拒み続けるならば、もはや神は、それ以上踏み込むことはなさらないであろう。それ以上の強制は、神にふさわしくないことなのである。
 つまりこれらのことから、人の心の中で、神が無力となることがあり得るのであり、そのように神の存在が無効となることがあり得るのである。そして、主イエスが預言されたように、末の時代になり、人々の心が冷え、この世の快楽と自分の利益ばかりを求め、他人の存在を無視するような無感覚な状態へとシフトするとき、ツアラトストラが語った「神は死んだ」という状態に世界がなり得るかも知れないのである。
 そのように恩知らずな人間に対して、ツアラトストラは語る、「同情しないように用心せよ。同情することからして、やがて一つの重い雲が人間たちに生じて来るだろう」と。神はなぜ、罪人たちのために苦しまれ、死なれたのか。なぜそのような非生産的なことをなされたのか。そうせざるを得ない神の性質、すなわち「神は愛なり」ということこそが神にとっての大いなる悲劇ではなかったのか。
 ツアラトストラは語る、「神もその地獄を持っている。それは人間たちに対する神の愛だ」と。まことに人間的な考えからは、そのようにしか見えない。しかし聖書は語る、「神は侮られるような方ではない」と。これこそ、すなわち「神の愚かさは、人の賢さよりも高い」ということこそが神の全能を表すものである。
 「あらゆる大いなる愛は、同情としての愛のすべてより、さらに上にある」。そのようにツアラトストラは語った。

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