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2010/04/20

至福の島々で

 「神は一個の仮想されたものである」とツアラトストラは言う。
 一方、神は実在するというのが私たちクリスチャンの確信であり、それを信じない者は不信仰として切り捨てることは簡単なことであろう。しかし、私たちは自分の信じている神について、どれぼどの知識を持っているのかということは、一度反省して見ても無駄にはならないだろう。例えば、「神の愛は、御子イエスにより完全に現された」と言われるが、そのことに関する知識というのは、福音を受け入れたときの感動と洗礼準備会で教えられた基本的な教理だったりする。旧約の民が神を理解せず、神の意にそぐわないことばかりをしていたのは、律法による行いによって神を追求したためであり、主イエスが十字架により、そのような呪縛から私たちを解放し、彼を神の御子と信じる者に無条件の救いを成し遂げられたというのが私たちの確信である。そして福音によれば、私たち個人としては、それ以上の神学的な知識を求めることは必須でなく、たとえ私たちの知識がおぼつかなく、信仰も弱くても、私たちの天の父なる神の方が私たちを守り導いて下さるので、私たちは心強いのである。
 ああしかし、それでは私たちは、もうこの世を生きるときに何も心配する必要がなく、確信と平安に満ちた人生を送ることができるのだろうか。聖書を読む限りそのはずであるし、事実教会でも往々にして私たちはそのように教えられてきた。しかし実質的にはどうであろうか。私たちは依然として、様々な面に弱さを持っており、いろいろなことに恐れや迷いを抱きながら信仰生活を送っていないだろうか。神に信頼すれば、すべてうまく行くと公言しながら、実際は何か困難が起こると、祈りも少なく、あれこれと思い悩み、苦心算段してその解決のために奔走するようなことになってはいないだろうか。そのように、聖書に記されていることや教会で教えられていることと私たちの生活とのギャップを見るとき、私たちは本当に自分が持っていると主張しているものを持っているのだろうかと疑ってみたくもなってくる。そもそも私たちは、何を持っていれば良く、そして実際には何を持っているのだろうか。私たちは、本当に聖書の主旨に従って、すなわち神の御心に従って考察し、行為しているのだろうか。そして、それをどのように知り、確信できるのだろうか。ツアラトストラが言う「神は一個の仮想されたものである」という言葉から私たちは、上述の反省をする余地があると思うのである。
 しかし彼はまた言う、「いったい創造すべき何物があろう、もし神々が現存するとすれば」と。人には、創造性は多様性と映り、多様性は美であり善なるものと映る。しかし、信仰においては、それは迷いであり得る。「創造と模倣」、「自由と束縛」このような対立の概念こそ、人の心が作り出した偶像であり虚無なのである。このことは、天的な知識によらなければ決して理解され得ない。福音からではなく、天的な事柄からである。福音は、天から来たが、それ自体は地上のできごとである。それゆえに私たちは救われることができたのである。
 しかし、ツアラトストラが認識しないものがキリスト信仰の中にあるのであり、私たちはこれを認識しなければならない。それは福音とは別の要素であり、それなくして信仰は成り立たないのである。これがなければ、私たちも彼と同じことを叫ぶであろう。すなわち「いったい創造すべき何物があろう、もし神々が現存するとすれば」と。ツアラトストラは、そのように語ったのであった。

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