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2010/04/17

聖書について

 聖書がすごい本だということは分かっているつもりである。でも私には、デボーションという習慣がない。決して自慢できることではないと思っているのだが。しかし正直に言ってしまうと、私には聖書を読む習慣というものがないのである。その代わり、読んだところはブログに書くことにしている。このとき、例えば創世記であれ民数記であれ、その書を最後まで書き遂げるという決意をもってやることにしている。すると神様が導いて下さるように思う。これまでに、途中でやめてしまったことはない。イザヤ書のように、もう久しく筆が止まってしまっているものもあるにはあるが、それでも決してそれを断念してしまったのではない。その気になりさえすれば、明日にでもすぐに始められるように思えるから。
 聖書のどんなところがすごいかというと、すべてが完璧にできているように思えるところだ。ブログに書いていても、ここはおかしいとか、ここは無意味だとか、こう直した方が良いというようなところは皆無である。そして、何度読んでも新しい意味の発見がある。しかしそれだけなら、むずかしい哲学書と同じだ。しかし、聖書の本当にすごいところは、それが単なる読み物ではないというところだ。それは、単なる読み物ではない。それは、真理なのである。だからそれは、ある意味で読み手とは無関係である。それは、読み手によって評価される必要がない。むしろ、聖書の方が読み手を評価するのである。もし聖書を読んだ人が、そこに書かれていることを信じ、その通りに実行するなら、その聖書の言葉がその人の人生に成就する。また、聖書の物語を読み、その主人公に感動し、自分もその人のように神に従いたいと願うとき、神はその人が自分の人生の中にその主人公の人生を見ることができるようにしてくださるのだ。
 聖書を読んでいて、そこにある言葉に違和感のようなものを感じたら、それをいろいろと詮索したり、別の意味に解釈しようとしない方がいい。むしろ、自分が変わる必要があると思うべきだ。「そんなこと無理だよ」と思っても、まあ一度神に祈ってみたまえ。まさにそのときが神があなたに近く臨んでおられるときなのだから。でも、いろいろな事情で、例えば心が弱っていたり迷ったりしているとき等で、どうしてもそれをする力が出てこないなら、それをそのままにしておこう。聖書と自分のギャップをそのままにして、しかし聖書は正しいとしておくのがいい。神さまは、きっとそれを解決してくださる。あなたが驚くような方法で。そして、あなたは徐々に知り始めるだろう。自分がいままで得てきた世界観は、これまで正しいと思っていたけれど、もしかしたらそれは、非常に不完全なもので、もしかしたら聖書に書いてあることだけが本当のことなんじゃないだろうかと。この辺りから、あなたは少しづつ霊的な世界を見始める。なぜなら、この知識は聖霊が与えてくださるもので、天からくるものだからだ。それは、徐々に、非常にやさしく、ゆるやかにあなたに訪れる。しかし、それらの小さな知識のひとつひとつは、この世との共通点を持っていないので、実はそれぞれ突然にあなたの心に入ってくるのだ。この天からの知識の粒を感じるようになると、それが来るときの感触を覚えているようになる。それが天国への入り口なのだ。その経験は、長い間あなたにとって、不随意的なものであるだろう。しかし、本当に少しづつ、ゆっくりとそれがどのようにして来るのか、どこから来るのか、どんなときに来るのかが分かるような気がしてくる。でも、本当はそれは、この世界においては、分からないものなのだ。そうでなければ、それは天的なものではありえない。しかし、しかしそれでも、この世界にいながら、それが分かるような気がしてくるのだ。それは、あなたが時間の中で、その感触を覚えるからだ。でも、それが次の機会にも、その同じ感触で来るとは限らない。往々にして、それはいつも違った感触で訪れる。それは、いつも違っている。その感触の種類は、無限にあるかのように思える。でも、やっぱりあなたは、その感触が懐かしいように思う。その感触は、非常に多様で、いつも一定してはいないのだが、あなたにはただ一つのことがはっきり分かる。それは、それが神さまから来たという感触なのだ。そしてあなたは、自分が何をすればよいのかがはっきり分かるようになる。つまり、神さまに動いていただくには、どうすれば良いかということを。そう、祈ることと、待つこと・・・・。
 ああ、また、とりとめのない話になってしまったなあ。

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