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2010/04/16

鏡を携えた子供

 ツアラトストラは、人々に別れを告げ、再び山中へ戻った。しかししばらくたって、2つのことが彼に再度下界へ赴くことを強いたのであった。まず、彼の内には蓄積されたが、まだ人々へ分かち与えられていない知恵がまだ多く残っており、それらが人々へ分かち合われることを欲していたのであった。そしてもう一つは、彼が以前人々に分かち与えた知恵が変質してしまったことを彼が感じ取ったのであった。なぜ、彼はそれを感じたのか。一つの理由は、彼が自分の知恵の寿命(ライフサイクル)を知っていたからである。賢者の知恵それ自体は、ある意味で普遍性を持っているに違いない。しかし、それがいかに普遍的なものであっても、社会情勢が変わり、人の心が変わり、その他様々な要素の変化により、以前は普遍的であったものが、たしかにまだ普遍的であるには違いないのだが、以前のようには、すべてに普遍的には適用できなくなってしまうということが起こってくる。それが人の知恵の限界なのであり、これはどうしようもないことなのである。というのは、この変化の力により歴史は展開しているのである。さてツアラトストラは、自らそのことに気づいた。そして、下界へ再び赴こうと決意したのである。
 しかし、ツアラトストラがそれに気づくやいなや、彼はまた自分の中の変化に気づいた。というのは、彼自身すでに世の敵と化してしまっていたからであった。彼の教えは、弟子たちの中で変質してしまった。そうなってしまった以上、彼はもはや弟子たちの仲間ではあり得ない。彼がその変質した教えに接したとき、彼が勝つか弟子が勝つかという戦いの状況が生じるのである。教えとは、真理とは、そういうものなのであり、異なる2つの教えが融合することはないのである。
 そこで、彼が以前弟子たちのところを去るときに語った「そのとき私は、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう」とは、このことだったのである。つまり、彼は自ら弟子たちの敵となったのであるが、一方で同じ真理の探求者としては、同士としての一体感と愛を抱いているのである。その愛とは、いままでのような慣れ合い的な愛ではない。世の推奨する愛は、それを維持するためには、自己の確信を易々と犠牲にする。しかしそれでは、自分であることを放棄して人を愛すること、つまり人に取り入ることになってしまう。それは、真理を探求する輩にはふさわしくない。そこで、彼の示すことのできる愛とは、自分の信じるものを相手に示すこと、それをもって相手を説き伏せること、あるいは甚だしくも、相手を倒すことでさえあるのである。これは、まことに歴史における勇者だけが持っていた確信であり、それは、人間的な愛にも勝るものである。旧約聖書には、この種の勇士的な愛が多く見受けられる。それは、美しく、確信に満ち、誇り高いものであるが、そこにあるのは、往々にして悲劇である。そして、それがこの世界において、人の到達し得る真理の限界なのである。この限界を越えられるのは、時間を越えた永遠の愛、全能の愛、すなわちイエス・キリスト以外にはないのである。

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