« 2010年4月14日 | トップページ | 2010年4月16日 »

2010/04/15

離脱について

 エックハルトは、真理の探求のために非常に多くの書物を読んだという。そのようにして彼が探し求めたものは、一つの徳であった。その徳とは、何か教訓のようなものではなく、理解でもなく、処方箋でもなく、彼自身のあり方だったのである。それは、自分が神の前でどのような存在であるのかという知識とそれをもって神の前にどのように生きるかという決意だったのである。彼は他の説教の中で言っている、「わたしに金持ちの兄弟がいたとしても、わたしが貧しい男であれば、そのことが何の助けとなるだろうか。あるいは、彼が賢くても当のわたしが愚かであれば、そのことが何の助けになるだろうか」と。そこで、彼にとっては、考えられ得るものは、それすなわち自分が成ることのできるものなのであり、もしそうでないならば、それを考えることに彼は何の意味も見い出さないのである。つまり、彼にとって人生とは、考えられ得る最上のものであるべきであり、そして実際にそうなのである。つまり彼が何かすばらしいことを知ったとしたなら、彼はそれそのものに実際になることができるべきなのであり、また実際になることができると彼は主張するのである。それに対して、もしある人が彼の人生において、何か良いものに気づきながらも、それをただただうらやむだけしかないならば、そのような人生は、虚しいとエックハルトは言うのである。
 そこで、聖書の中に、何か自分を感動させる、すばらしいことが書かれているなら、それがそのまま、その人の人生にも起こるべきなのであり、エックハルトは、実際にそれが起こると教えるのである。また、聖書の中に、何か自分を感動させる、ダビデのような勇者がいるならば、それを読んでいるあなたは、正にダビデのような勇者になることが可能なのである。そして、神の子キリストがあなたのために天の栄光を捨てて、地に下られたならば、あなたは天の父から自分の子として愛されているものであり、あなたはやがてキリストの姿に変えられることが約束されているのである。
 だから、エックハルトを読んでいる人が、もしこのことを受け取ることがないのなら、エックハルトはその人にとって、何の関係もなく、何の益ももたらさないと私は思うのだ。彼の説教を読んで、何か難解で、いままで聞いたこともないような凄いことが書いてあると思ったとしても、エックハルトが伝えたいのは、そんな糞土のようなものではない。彼の用いる神秘的なアプローチは、実は聖書に基づいている。それは、「見えるものは、見えないものからできた」とする聖書の記述に対する真正面からのアプローチなのである。そして、見えない世界へ自ら赴こうとするのである。いや、彼はこの見える世界から一歩も出ることなく、見えない世界を見ようとするのである。そして、真理の追求には、このアプローチ以外にないのであり、その究極がこの論述の主題である「離脱」なのである。
 それは、瞑想のようなものなのだろうか。そうではない。彼は、考えるのではなく、自らそれを生きるのである。それは、逃避のようなものだろうか。いや、そうではない。彼は、それをもってこの世界に肉迫するのである。そして、キリストと困難をも共にすることを願うのである。彼は語った、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである。キリストと共に最も大きな苦しみに立つ人たちにもまして、永遠なる甘美を多く享受する人などはいないからである。苦しむことほど苦いものはない。しかし苦しんだことほど甘美なこともない。世間では、苦しむことほど身を醜くするものはないが、逆に神の前では、苦しんだことほど魂を飾るものはないのである。このような完全性が立つことのできる最も確固とした基盤は謙虚さである。その人の本性が地上で最も低く身を屈めれば、その人の霊は神性のはるか高みへと舞い立つからであり、愛は苦しみを、苦しみは愛をもたらすからである。それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである。そうすれば神性の近くにまで至ることとなる。このことがわたしたちすべての者にかなえられますよう、最高の離脱が、それは神自身であるが、わたしたちを助けてくださるように。アーメン。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年4月14日 | トップページ | 2010年4月16日 »