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2010/04/14

旧約聖書と新約聖書の関係

 キリスト教について、未だにどうしても理解に苦しむことがある。それはつまり、新約聖書に「あなたの罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったので、あなたの罪が赦された」というようなことが書いてあり、それを文字通りに人々に宣べ伝える人がおり、その結果神を信じて洗礼を受ける人がいるということである。こんなことを言うと、信仰者の風上にも置けないと思われるかもしれない。しかし、私には以下のことが常識では理解できないことに思われるのだ。
 そもそも「あなたの罪」とは、何なのか。たぶん世の人は「私は、別に人に迷惑をかけてはいないし、警察に捕まるようなこともしていない。また、何も後ろめたいこともない。それなのに、どうして私に罪があるように言うのか」と疑問に思うことだろう。この「あなたの罪」ということ一つをとっても、それを理解するためには、人が創造された目的や罪を犯した経緯、その結果が招いた恐ろしい歴史等々を知る必要がある。つまり、旧約聖書を読んでそこに書いてあることをしっかり理解することが必要と思うのだ。でもそれはもちろん、そんなにたやすいことではない。
 また誰かが「十字架にかかって死ぬ」ということがいったい何の役に立つのかという疑問もあるだろう。それは、ローマの処刑方法なのであるが、それが「あなたの罪」と結び付けられるためには、旧約聖書に書かれている「罪のための捧げもの」すなわち「贖罪の規定」を読み、自分の罪を怖い神さまに赦してもらうためには、ただ謝っただけでは全然だめで、なんと罪のないキリストが犠牲とならなければならなかったという複雑怪奇なことを理解する必要があるのである。
 さらに、そもそも「罪が赦される」ということを正しく理解すること自体がむずかしい。というのは、この世の常識では、また特にこの日本においては、「赦す」ということは「許す」つまり往々にして、「なあなあ」を意味することが多いからである。つまり、神さまはいい加減な方で、人をたやすく許してくださると思われてしまいがちである。しかし神さまは恐ろしい方で、人を地獄に入れる権威をお持ちなのであり、これを曖昧にしてしまったら、イエス・キリストの十字架が空しくなってしまうだろう。
 そこで、彼らクリスチャンたちは自分の宣べ伝えていることを果たして正しく理解しているのか。また、それを聞いた人についても、その意味がどれだけ分かっているのかという疑問が起こってくる。なぜそんなことを考えるのかと言うと、一つ間違えると、伝道が人を騙すこと、つまり何かいかがわしい新興宗教やカルト集団のやることと同じように結果的になってしまうかもしれないと思うからである。あるいは、そこまではならないとしても、一度は信じた人が、教会生活を送るうちに、教会の人々が彼に対して次第にそっけなくなったのに気づき、こんなはずではなかったとか、自分はキリスト教について、勘違いしていたとか、いままでぜんぜん理解していなかったというような感情を抱くようにならないとも限らないと思うからである。
 つまり上で述べた「あなたの罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったので、あなたの罪が赦された」という文章は、非常に高度で複雑な意味のかたまりなのであり、それをそのまま世の人に語ったところで、到底理解できる代物ではないと思われるのである。私たちは、まずこのことを素直に認める必要があるのではないかと私は思う。しかし、そのような心配をよそに、このパッセージを暗記したように繰り返すだけのクリスチャンがいる。そして何と、それによってキリストを信じる人が実際にいるのである。これは、私には到底理解できないことである。
 それにしても、どうして信じる人がいるのだろう、あんな貧弱なアプローチによって。それについて考えられることとしては、それを聞かされた人の内に、すでに罪の自覚がある場合である。その場合には、その人は、自分の罪の呵責に苦しんでおり、それを引き受けてくれる人を求めているのである。そこでその人は、聞かされた福音の内容については、良くは理解できないまでも、その中に何か自分のニーズに合致し得るものを感じるのだろう。あるいは、福音については、殆ど理解できないが、自分に優しくしてくれるとか親身になって話を聞いてくれるとかいうことも一つの要因になり得るだろう。そして、その背後に、何か自分には理解できないが、良いものがあるに違いないと思うのかもしれない。
 これまで述べてきたことの要点及びそれらから言えることは、次のことである。すなわち、キリスト教の伝道において語られた福音は、理論的には、それを聞く者によって適切に理解されることはほとんどなく、それが受け入れられる場合においても、往々にしてそれが意図していなかったような意味に理解されている可能性が高いということである。そこで、何が考慮されなければならないかと言うと、福音を信じ、洗礼を受け、教会員になった人に対して、旧約聖書を通して、信仰の基礎をしっかりと教えることである。新約聖書から遡ってではなく、創世記から順序良く教える必要があるのである。そうでないと、その人は、一生福音の真の意味について理解することがないと思えるのである。そして、そのような信徒は、いつになっても人から何かを貰うことを追い求めるばかりで、キリストのために働くということがないだろう。今日のキリスト教会の状況を見ていて、とりとめもなく、そのように思うのである。

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