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2010/04/09

天国について

 天国はどんなところなのだろう?って最近、ときどき考えることがある。そういえば、誰だったかJTJの先生が、「天国に行ったら、いままで忙しくて十分にできなかった自分の趣味を思う存分やるんだ」と言っていたのを思い出した。天国って、そんな別荘のようなところなのだろうか。
 そう言えば昔、まだクリスチャンになる前には、天国をもっと仏教的な風に考えていたっけ。人間は死んだら星になるんだって。つまり、夜空のどこかに張り付けられてしまって、もう動くことがない。その場所にずっといて、空から地上を見守っているっていう考え。でも、なんだか不自由で耐えられないかもしれないな。そういえばキリスト教の中にもそんな考えがあったっけ。つまり、「主の庭に植えられる」ってこと。その人は、もう迷い出すこともなく、永遠に神に近いところに侍って、ただ神をほめたたえながら暮らすんだって。これもとても不自由に思える。
 これらとは反対に、無限に自由な考え方もある。それは、なんだか、いつか聞いた星新一の小説のようだけど、一人づつになって、頭になにかヘッドギアのようなものを付けられて、永遠に自分の好きな夢を見て暮らすというもの。これは、限りない不自由の中で限りなく自由だと思いこんでいる、とてもかわいそうな存在にも思えるし、一方で、もっとも周りに害を及ぼさない幸福のようにも思える。
 こんな風に考えて来ると、あのJTJの先生の天国のイメージにも、それなりに、何か深みのようなものがあるようにも思えて来るのだが。それにしてもいったい天国はどういうところなんだろう。いずれにしても、人間の考えることは、現世における様々な不自由や不都合からの解放についての夢物語のように思える。それぞれに都合の良いことを考えて、結局、いま一つ考慮が足りなくて中途半端なように思えるのだ。人間の考えることは、所詮そんなところなのだろう
 それでは、あなたはどう考えるのかと問われれば、次のように答えよう。ここからは、私の考えを断定的に述べようと思うのだが。すなわち「天国は、回答だ」と私はまず答える。つまり、私たちがこの世界で持っていた様々な疑問への神様からの答えだと思うのだ。それがすべて天国にある。天国そのものがそれらへの答えなのだ。だから、その中には、うれしい答えも、きびしい答えもあるに違いない。でも、そのすべてが納得できるものに違いない。そして私たちは、そこで神の知恵と力に驚嘆することだろう。いずれにしても、天国を目の前にして、私たちは度肝を抜かれることだろう。イエス様も言われた、「天国は激しく襲われている」と。また、「地上のことが分からずに、天国のことが分かるだろうか」と。そして、人々に譬えによらないでは、天国のことを語られなかった。しかし天国では、あからさまに語られるだろう。天国はまた、聖書のようなものかもしれない。私たちの疑問への答えがそこに書かれているということならば。いまはそれが理解できないかもしれないけれど、天国に行けば、きっと完全に理解できるのだろう。たとえば、人はなぜ生まれてきたのかとか、何のために生きるのかとか、この世界に、はたして自分以外に生きている人がいるのかとか、この世界は夢なのかそれとも現実なのかというようなことも、きっと理解できるようになるのだろう。
 しかしそれでは、「天国は理解」なのかと問われれば、「それは違う」と答える。天国は、断じて単なる理解などではない。それは、現実だと思うのだ。つまり、もっと厳密に言えば、「理解したことがそのままに実現しているところであり、あなた自身がその現実そのものとなるところ」である。そこには、架空のものや名目的なものは存在しない。すべてが現実で、わたしたちは、それらと直面する。そこには、時間というものが存在しないのだから。それでは、そこには可能性がまったくないのかと言えば、むしろその反対である。つまり、可能性と現実の区別がないのである。そこでは、考えたことがそのまま現実となる、いや考えてからそれが現実化されるのでも、現実化するために考えるのでもなく、それは考えると同時にすでに現実なのだ。
 このような世界は、確固とした価値観を持っている人にとっては、すばらしいところかもしれない。彼の望む義が、そこを満たしているからだ。その義が天地を造られた全能の神の義ならば、彼の王国は、動かされることはない。しかし、心の中に平安の無い無法者のような人にとっては、恐怖の坩堝となるだろう。彼は、彼自身が考え、創り出す恐怖の国に自ら住まなければならないのだから。
 それは突飛な考えだろうか。そうでもないように思えるのだが。というのは、聖書に「キリストと共に治める」とか「勝利を得る者」とあり、キリストも「風は思いのままに吹く」と言われている。また、イスラエル民族の歴史における祭儀と神殿の位置づけ、及びその特に新約的な解釈における信仰者の心との同一性、等々を考え合わせるとき、そのように思えるのである。
 それは頼りない世界だろうか。確かにその世界の存続は、そこに住む者の心にかかっている。しかしもし彼が、彼が神を信じ、従うならば、その国は揺らぐことがなく、その類無さゆえにその国は最高の価値を持つのだ。
 それは目的のない世界だろうか。たしかにその世界は、何のためにあるという意味での目的を持たない。しかし、良く考えてみていただきたい。その目的は、その世界自体なのである。その世界は、自分自身を定義し、創造し、支配し、楽しみ、味わうことにおいて限りがないからである。
 それは寂しい世界だろうか。そうかもしれない。そこに住むのは、その人一人のようにも思えるから。しかし、現在の世界においても、本質的には人間は、自分の心に閉じこめられていて、自分一人ではないだろうか。この天国という世界において、人々はどのようにして心を通わせることができるのか。それが一つの疑問であるが、たぶんこの世界におけるよりは、互いを認識しやすいのではないだろうか。きっとキリストが間を取り持ってくださると思うから。キリストは、「父の家には住むところがたくさんある」と言われたし。それぞれが独立の部屋または国であったとしても、それは父の家の中にあるのである。
 そこは、・・・・。
 もう、これくらいにしておこう。ほんとうにとりとめのない話になってしったようだし。

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