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2010/04/08

神と神性とについて

 「神は、ご自身の形に人を創造された」。エックハルトは、この聖書に記された「人の創造」というできごとを特別なものと見る。彼は語る、「造るということは、簡単なことである。しかし創造するといったとき、わたし(神)が創造するものは、わたし(神)自身であり、わたし(神)自身によって、わたし(神)自身の内へ、わたし(神)の像を完全に写し入れるのである」と。すなわち、これが彼の語るところの「流出」というできごとであり、私たちは、神の元から外へと流れ出ながら、同時に神の内にいまもそして永遠に留まり続けているのである。それは時間の内においては、或る特定の時に始まったのであったが、また同時に永遠の内においては、現在も働いている永遠に不動なる神のわざであり、この不動性により、すべてのものは動かされているのである。つまりこの「流出」においては、「出てくること」と「出て来たところへ戻ること」とは、一つのことである。聖書に「主は、あなたの出ずると入るとを守られる」とある通りである。これに関して私たちは、聖書の中にいくつかのモチーフを見い出す。ヤコブもイスラエル民族も、主イエスが語られた「放蕩息子の話」も、もと出てきたところへの回帰を語っているのであり、「彼らが出てきたこと」と「その元の場所へ帰ること」とは、「流出」という神の永遠のわざにおいて、一つのことだったのである。
 さて、私たちは、これらの体系の中のどこにおいて神を認識するのだろうか。もちろん神の外においてである。組織であっても何であっても、それを客観的に認識するためには、その対象の外へ出る必要がある。神は、私たちという神のわざを通してご自身を客観的に認識されるのである。しかし、ものごとの本質を知ろうとすれば、自らその中に属することが必要となる。そこでこの本質の認識への契機は「回帰」の内にこそあるのである。
 しかしこの「回帰」はまた、「一(いつ)」への回帰であることを認識する必要がある。そこでは、すべてのものは一であり、この一であるものについて人は語ることができない。かつて私の永遠なる流出において、すべてのものが語った「神が有る」と。しかし、回帰においては、すべてのものは沈黙する。それは、永遠なる運動であり、私はすべてのものを御子を通じて神から相続し、それらと共に神の元へと回帰するのである。そしてそれは、私一人で行うべきことなのである。つまり、すべての被造物が「神」と叫んだのは、それを通して私が神を認識するためであり、その結果私がすべてのものを取り戻し、それらを神のものと成すためだったのである。このことのモチーフも聖書の中に見出される。すなわち、聖なる民イスラエルによる異民族の征服、そして約束の地の奪還であり、そのことを主イエスはまた、「天国は、激しく攻められている」と言われたのである。エックハルトは語る、「すべての被造物はその有のためにその命を捨てる。すべての被造物は、わたしのうちで精神的に存在しようとして、みずからをわたしの知性の内へと運び入れるのである。すべての被造物が神へと再び帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである」と。
 しかし、そのようにして、私が神の元へ帰り来たるとき、そこには何が見出されるのだろうか。しかしそれが実は、何もないのである。そこには、私が認識できるような被造物は、文字通りには存在しない。そこでは、すべてのものは一つだからである。そこにあるのは、すべての被造物の原像であり、そこには区別も概念もない。それゆえ私の理性は、それらを認識できないのである。そればかりではなく、私は私以外の人間さえも認識できない。そこでは、すべてのものが一つだからである。つまり、そこでは私は、私以外の人やその他の被造物を認識する必要すらないのである。なぜなら、エックハルトによれば、そこで私は、すべてのものを動かす不動の原因だからである。彼は語る、「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとに立ちとどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」。

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