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2010/04/05

贈与する徳について

 ツアラトストラがしばらく滞在したいた町を去るときが来た。人生には、往々にして別れが訪れる。しかし、この町は彼のこころにかない、ツアラトストラはここで何人かの弟子を獲得した。しかし彼は、何故に再びこの町を去ろうとするのだろうか。それは、実は彼が弟子たちから去るということも彼の教えの一部だからである。
 教えは、師から弟子へと直接に伝えられる。言葉と行為を通して。しかし、伝えられた教えが弟子たちの内で完成されるためには、弟子たちは独力でその実践に向かう必要があるのである。その場に師がいてはならない。そこで師は、一時的にでも弟子たちのところを去らなければならないのである。そして師が去った後、弟子たちは、自分と自分を取り巻く世界の観点から再び師の教えを租借する。そして、今まで完璧に思えていた師の教えの中に、いくつかの修正点を見出すことになる。というのは、人生を真剣に生きている人なら分かることだが、真理は人の数だけあるので、一般的な真理など何の役にも立たないことが理解されて来るからである。
 しかしツアラトストラは、弟子たちへの別れの言葉の中で、いつか再び彼らの元へ帰って来ることをほのめかした。それは、彼が弟子たちの成長を見るためである。そのとき彼は、弟子たちから懐かしく迎えられるであろうが、そこにはすでに一節の不協和音が奏でられていることだろう。それは、彼の教えが弟子たちの内で変質したのを感じるからである。そしてそれが正に師としての彼が予期し、また求めていたものでもあるのである。しかし再び、それもツアラトストラの最終目的ではない。彼は語る、「まことに、わたしの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを探し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う」と。
 教えは、それ自体が目的なのではない。教えの実践を通じて成し遂げられるもの、すなわち教えの実こそが真の目的なのである。そして、その実現のためにこそ、教えは弟子たちの内で租借され、ときには変質すべきものなのである。
 キリストも弟子たちの元から去って行った。あのときは、死が彼らの間を隔てた。そしてキリストは、世の師たちのようには、再び弟子たちの元に戻ってくることはなかった。彼らの出会いは、一度だけの真剣勝負であった。キリストは言われた、「私の言葉は、滅びることがない」。キリストの教えは、私たちの中で変質することはない。それは、何かを成し遂げるための教えではない。彼の言葉こそがキリストご自身であり、彼の教えこそが真理であり、全宇宙の目的なのである。

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