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2010/04/02

観想的生と活動的生とについて

 ルカの福音書に出てくる「マリアとマルタ」の話は、信仰における観想的生と活動的生とを表しているとエックハルトは言う。
 観想的生が信仰的なものである限りにおいて、それは、目に見えないものに心の目が開かれ、その重要性に気づき、それに憧れ、求めるという点で、生まれながらの人に比べて、真理の探求という面で卓越したものである。他方、活動的生が信仰的なものである場合には、それは、観想的生の持つ、そのような真理への執着からも解放され、真理を求めることをもはや越えて、真理を生きる者とされてるということにおいて、観想的生に勝る信仰の段階であると見ることができる。
 しかし、信仰的にそのように卓越した状態にあったマルタが主イエスから、「あなたは思い煩いの中にある」と言われているのである。そこでマルタは、このとき何事かに思い煩っていたのであり、彼女のように信仰的に高い段階にある者も、ときに思い煩うことがあるのである。
 エックハルトは語る、「さてマルタは言う。『主よ、彼女にわたしの手伝いをするよう命じて下さい』と。マルタは不機嫌になってこの言葉を語ったのではなく、むしろ彼女は、愛から出る好意にかられてそう言ったのである。わたしたちは、それを愛から出る好意、愛の叱責と呼ばずにはいられない。それは、マリアが魂の歓喜にすっかり満足して浸りきっているのをマルタが見たからである」と。
 つまり、いかに信仰において卓越していても逃れられない思い煩いというものがある。しかもそれは、他ならぬ信仰の一つの契機であるところの愛から生まれ来るのであり、キリストの苦しみもこの愛に発するものであった。しかし、もし思い煩っているその人が信仰に立っているのなら、それはそれ自体たしかに思い煩いではあっても、世の人の体験する思い煩いとは本質的に異なっているとエックハルトは言う。彼は語る、「愛するマルタは思い煩いの中ではなく、思い煩いのかたわらに立っていたのであった。その場合、時間の内における働きは、何らかの仕方で神の内へと没入している場合と同様に高貴なものとなるのである。なぜならば、その働きは、わたしたちに分かち与えられうるかぎりの、最高のものにまで、わたしたちを高く上らせるからである」と。
 私たちがこの世界にある限り、思い煩いもまたそこにある。いや思い煩いだけでなく、すべての悲しみ、苦しみもまたそこにそのままにあるのである。しかし、神の友である人にとっては、彼が思い煩いや悲しみ、苦しみの中にあること、そのこと自体は、彼を決して思い煩わせることがない。彼は、神への変わらぬ信頼と愛との内にその状態の中に留まるのである。もはや彼にとって、今体験しているところの困難から解放されるかどうかは問題ではない。彼は、神を信頼しており、神はその全能により、彼をいつでもその困難から解放することが可能であることを信じているのである。このような人にとって、一切のこの世的な諸概念は、もはや意味を持たない。人々が神からもっとも遠いと思っている苦難や喧噪の中で、彼は神の最も近くにいることができる。彼が最も自分自身を意識する場所である心の密室において、彼はそこに神を見いだす。彼の肉体が弱り、あるいは疲れ、自分の弱さを重苦しく感じるそのとき、彼のそば近くに寄り添われる神の臨在を強く感じるのである。これこそ、生前のキリストが持っておられたものであり、いま私がこのブログカテゴリーで追求しているところの神秘主義の光なのである。

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