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2010/04/01

自由な死について

 キリスト者にとって、死はいわば神からの召しである。それゆえ、キリスト者は、自分の死を自分で規定したり詮索したりはしない。そして、そのように自分の死を規定しないことは、また生を規定しないことでもある。しかし一方で、キリスト者ほどに自分の人生を規定するものはない。キリスト者は、自分の人生をまったくキリストに服従させることにより、自らの生死の全体を規定するのである。
 信仰に基づくこの規定の体型は、あらゆる思弁的な誘惑への堅固な砦である。しかし、不可解なことにその砦の城壁が崩れ始めることがある。外に対しては、難攻不落を誇るこの砦が内部から、反逆によって崩壊を始めることがあるのである。それは、神が人に自由意志を与えられたことによるのである。そして人は、この自由意志により自由に振る舞うことができるのであるが、それでもそこには大きな制約がある。それは、当たり前のことなのだが、彼の自由意志は、まさに彼自身の意志に従属しているということである。そこで、それが本当に自由かどうかは、彼が自由な存在か否かに掛かっている。ところで彼は、はたして自由な存在なのだろうか。否、彼が生まれながらの人間である限り、死への恐怖と種々のこの世的な誘惑にさらされ、それらに束縛されているのである。そこで彼が本当に自由な存在となるためには、彼が上記のことから解放されなければならない。そのためには、彼がキリストに全く従う以外にないのである。それにより、彼は彼自身の意志から自由になり、キリストの知恵が彼に与えられる。彼は、その知恵により、キリストと共に支配する者となるのである。
 ところで聖書は「柔和な人々は地を受け継ぐ」と語る。また、「あなた自身と同じようにあなたの隣人を愛せよ」と言う。これらを用いて、現代の説教者は信仰者に、「自分を大切にしなさい」と語る。しかし、信仰の先人たちの雄姿は、どこ行ってしまったのだろうか。そこで勧められているのは、往々にして、かつての旧約の勇士たちから見ると、むしろ卑怯者の人生であり得るのである。
 ツアラトストラは語る、「死においてみずからの生を完成する者は、希望し誓約する者たちに取り巻かれて、勝ち誇りながら、みずからの死を死ぬ。できることなら、こんなふうに死ぬことを学んでほしいものだ。そして、およそ祝祭が挙行されるところ、必ずや、こんなふうに死に行く者が生き残る者たちの誓いを清めるというようであってほしいものだ。こんなふうに死ぬことが最善である。だが次善は、戦いのうちに死ぬこと、かくて一つの大いなる魂を浪費することである」と。
 私たち信仰者は、もう一度自分の死を取り戻す必要がある。キリストが「一粒の麦が地に落ちて」と言われたのは、歴代の勇士たちにも勝る、潔い生と死を示して言われたのである。いまこそキリスト教は、個人の価値が見過ごされていくこの末の時代にあって、一人の人間の死の重さを聖書から、そしてキリスト者の人生から、世に示さなければならないだろう。それがこの時代に福音の重要な要素としての「キリストの死」の意味を再提示することにもなるであろう。しかし、もしそうでなく、私たちが聖書の言葉を何か格言のように、また自分の人生の気休めのように受けとるだけなら、私たちの人生は、キリストの前に「生温く、口から吐き出され」ても仕方のないものとなってしまうかもしれない。
 「決して甘くならない者が少なくない。夏のうちにもう腐るのだ。そういう者をその枝にしがみつかせているゆえんのものは、臆病さである。あまりに多数すぎる者たちが生きながらえて、あまりに長く彼らの枝にかかっている。あらしがやって来て、これらの腐った者たち、むしばまれた者たちを、すべて木からゆすぶりおとしてくれればいいのだが。すみやかな死を説教する者たちが来てくれればいいのだが。この者たちなら、生の木々をゆすぶる、おあつらえ向きのあらしになってくれることだろうに。だが、わたしが聞くのは、ただゆるやかな死を説教し、また一切の地上的なものを忍耐するよう説教する声だけだ。ああ、きみたちは地上的なものを忍耐するよう説教するのか。この地上的なもののほうこそ、きみたちを忍耐しすぎているのだ、きみら、地上的なものの中傷者たちよ。」ツアラトストラは、かく語った。

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