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2010/03/10

新しい偶像について

  「国家とは、すべての冷やかな怪物たちのなかで。最も冷やかな怪物のことだ」とツアラトストラは言う。国家の徴表は「善悪についての言語が混乱していること」だと彼は言う。
 エジプトはイスラエルを支配した最初の国家だった。イスラエル民俗は、そこにおいて大いに増え広がったが、自らは国家となることなく、そこから脱出した。しかし、彼らが約束の地に入った後に、彼らは自ら王を求めた。彼らには、それか何を意味するのか分かっていなかったが、それは結局国家を指向することであった。そして、それが彼らの罠となり、彼らはその呪縛から逃れることなく、ついにバビロン捕囚に至ったのである。国家とは、神の王国に対峙するものであり、そこにはいつもサタンの王座が据えられる。なぜそうなるのかと言うと、それは万民を支配する一つの権威であり、しかも神に対立する権威だからである。たとえ国王がクリスチャンだったとしても、国王は国家の前に絶大の権力を持ちえない。そこが国家である限り、国王も国家に従うことを強要される。国家の言うことを聞かない国王は暗殺されてしまう。それは世界の歴史が語っている。
 「善人も悪人も、すべての者たちが毒を飲む者であるところ、わたしはそれを国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべての者たちが自己自身を喪失するところ、それが国家だ。すべての者たちの緩慢な自殺が『生』と呼ばれるところ、それが国家だ」とツアラトストラは語る。私たちは、国家をそのように観る必要があるのであり、それゆえたとえキリスト教国であっても、その王座を最終的に操っているのはサタンなのである。イスラエル国家にしてもその例外ではなく、その王権が平和の内に再臨のキリストに引き継がれるのではなく、終わりの日が来る前にその権威は打ち砕かれるのである。
 もし教会に、国家と同じような考えが入り込むならば、そこにもサタンの王座ができるだろう。「国家と同じ考え」とは、「多数者のために」ということ、すなわち「民主主義」であり、そのために犠牲となることが賞賛され、暗に強制される。ここに価値観の大混乱が起こっているのである。それゆえ教会において、国家の倫理が運用されることのないように注意しよう。多数者の嗜好とか、多数決とか、アンケートとか。それらは、存在したとしても、単なる参考資料でしかない。それが重要視されるとき、教会は国家と同じ運命を辿るだろう。
 「国家が終わるところ、そこに初めて、余計者でない人間が始まる。そこに、必然的な者の歌が、ただ一回的な、かけがえのない旋律が、始まるのだ。国家が終わるところ、さあ、そちらを見やるがよい、わたしの兄弟たちよ。きみたちにはあれが見えないか、虹が、また超人の橋のかずかずが。」このようにツアラトストラは語った。

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