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2010/03/30

子供と結婚について

 「神が合わせられたものを人は離してはならない」と聖書は言う。そのように結婚は、クリスチャンにとって祝福である。しかし、世の諺にあっては「結婚は人生の墓場なり」と言う。世にとっては、結婚は一つの大いなる束縛であり、この世界は、束縛と自由を相反するものと見る。それは、愛のまったく貧困な理解であり、世の人々は、愛に対するそのような理解をもってこの世界を生きるのである。それゆえそこには、ささやかな幸福と大いなる悲惨とがあり、そこにおいては、神の祝福としての結婚もまた墓場となり得るのである。
 しかし、世の人々は別として、キリスト者についてはどうであろうか。否、教会の中にも、世の人々と同じように結婚生活における苦難を経験している信徒が少なくないのではないか。それはなぜだろうか。本来、人間理解において完全であり、結婚の奥義を信仰の奥義としての「キリストと教会の関係」に発するところのキリスト教会自身が、自ら結婚の祝福を信徒に享受させ得ないとは。これほど不可解なことが他にあるだろうか。
 たしかに結婚生活は、両者の犠牲の上に成り立つ。パウロも「二人は苦難に遭うだろう」と言っている。それに対応できるためには、精神の健康がまず必要なのだろう。しかるに、現代のキリスト教会においては、まずこの精神における健康が十分に確保されていないように思われる。一般信徒はもとより、牧者自身においても、最近では、日常的な憂鬱の症状が散見されるようであり、この種の多様で複雑な現代の病理は、キリスト教にとっても予想外の新しい領域であり、未だに対処する術を持たないということなのだろうか。
 否、そうではないだろう。主イエスの生前においても、巷には精神に異常を来した人がたくさんいた。聖書は、それらを悪霊の仕業に帰しているが、それらの症状は、今日において見られる類のものよりも奇怪で、いっそう対処が困難に思われるのである。しからば、今日のキリスト教会に見られる不健康の原因は、いったい何だろうか。
 一方、ツアラトストラは語る、「結婚、と私が呼ぶのは、創造した者たち以上の者なる一者を創造しようとする、二人の意志だ。このような意志を意欲する者に対する畏敬としての、相互の畏敬を、わたしは結婚と名づける」と。しかし、キリスト教が与える結婚は、それ以上のものだ。そこでは、結婚する者も、その二人から生まれ来る者も、それ以上でもまた以下でもない。結婚は、それによってより良いものを創り出すためのものではない。結婚それ自体がすでに神聖なもの、最良のものなのである。それは、結婚がキリストと教会を表しているからである。しかしもし、この結婚の奥義が理解されず、それが実践されることもないならば、すなわち、「互いに愛し合いなさい」とか「夫は、妻をいたわりなさい」とか「妻は、頭なる夫に従いなさい」というような言葉をただ文字通りに、人の格言のように受け取り、または説教するだけならば、結婚の神聖性は失われ、そこに俗なものが入り込んでくるだろう。そして、二人は苦難を受けることになろう。
 しかし本当は、二人が苦難の中にあるかどうかは、あまり問題ではない。肝心なのは、結婚という秘儀を神の元へ返すこと、自分で抱えたり、色づけしたりせずに、それをもう一度、「キリストと教会の関係」に帰し、そう宣言することである。そうすれば、神の元から、回復の光が輝き出て、二人の間に再び聖なる関係が顕現するだろう。教会は、この奇跡を教えなければならない。それこそが、教会をこの世から聖別するのであり、それなくしては、結婚も世の人の人生同様、一つの実験、すなわち遊技に過ぎなくなってしまうかもしれないから。しかし、そのためには、まず教会に、頭なるキリストへの徹底的な従順の心が与えられなければならないのであり、そのようにして、キリストの主権が私たちの全領域を覆う必要があるのである。

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