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2010/03/20

老若の女どもについて

 神は人を男と女とに創造された。そして、女を男の助け手として造られた。それゆえ、女は男に従うものとされている。この主従関係は、実は相対的なものであり、キリストと人間との関係においては、男でさえもキリストの花嫁として、従う者と位置づけられる。そしてこのことにおいて、私たち男性は、キリストへの服従について、女性に学ぶ必要があるのである。
 女性の従順が徹底したものであるのに対し、男性の従順は実に気まぐれである。男は信仰においても、常に何か新しいこと、自分でも楽しめるようなことを始めようとするのである。あたかも信仰や従順以外になにか他の目的があるかのように、道草をしようと考え始めるのである。それは例えば、その時々に自分に示されている、大切なことを材料にして、それとは直接関係しない新しい普遍的なことを編み出そうとするようなことである。しかし、女性の従順は、動くことがない。それは、男のように遙か手の届かないところに目的を持ってはいない。それは、常に自分の最も近くに一つの崇高な目的を持つ。すなわち、従うことにより、捧げることにより、自分自身が生むものとなることである。そして、それはさらに何のためかと問うことをしない。それは、彼女にとって、生むこと自体が一つの目的だからである。信仰は、常に示されたところに従って歩むのであり、その先をあれこれと詮索するものではない。それは、そのときどきに示されるものそれ自身になることだけを追求するのである。そしてその示されるものは、決して普遍的なものではなく、実にその人固有のもの、ただその人だけのものなのである。
 ツアラトストラは語る、「そなたたちの愛のうちに名誉があれ。それ以外には、女は名誉についてあまりよく知らない。だが、つねに、愛されるより多く愛し、決して第二位の者とならないこと、これがそなたたちの名誉であれ。女が愛するとき、男は女を恐れよ。愛するとき、女はあらゆる犠牲を払い、そのほかのことはすべて女にとって価値がなくなるのだ」と。

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創造者の道について

 キリスト教は、愛の宗教だと人は言う。しかし、その愛には、どれほどの犠牲が伴っていたことか。そしてそれは、キリストの受難だけではない。12使徒は、ユダとヨハネを除き全員殉教したと言われているし、これまでおびただしい数のクリスチャンが信仰のゆえに命を落としてきた。たとえ現代がどのように平和であっても、たとえばひとたび戦争が勃発すれば、私たちクリスチャンは、国家権力の下に服従を強いられることになる。そして、従わない者は容赦なく処罰されることになるかもしれない。ちょうど歴代の信仰者が遭遇したあの大いなる殉教の歴史のように。それが実は、私たちの置かれている信仰の現実なのではないだろうか。しかし今日の日本に、そのような信仰の現実を信徒にあえて認識させようという教会がどれほどあるだろうか。そのようなことは、一年に1回、それも終戦記念日の説教ででも取り扱えば良いという認識が一般的ではないだろうか。
 そもそも試練が襲い来るのはなんのためなのか。それは、人の内にあるものが現れるためである。神は、その人の内に何があるのかを確かめるために、試練を与えられるのである。それゆえ、試練の内にあるかどうかは、本質的な問題ではない。「キリストに従えば、人生がすべて祝福され、楽しく充実して生きることができる」というような楽観的な考えを改めることこそが必要なのである。しかし今日、そのような楽観的な信仰のハウツー本がちまたにあふれている。そして、それらを読み、実践し、その効果を証しすることこそが現代的な力あるクリスチャンだと思われているのである。たしかにそれは、現代的な一つの力ある伝道方法であり得るだろう。そして、それによりこれまでキリスト教に目を向けたことがなかった多くの人がキリスト教的な真理に目を開かれ、新たに教会の門をたたくことになるかもしれない。しかし、それは入り口であることを認識する必要がある。ツアラトストラは語る、「いつの日か、きみはもはやきみの高さを見ることなく、きみの低さをあまりにも近く見るであろう。きみの崇高さそのものが、幽霊のように、きみを恐れさせるであろう。きみはいつの日か叫ぶであろう。『一切はまやかしだ』と」。
 信仰に試練が伴うものであることは、キリスト教の歴史が証明している。それゆえ、試練が襲い来るとき、本当のもの以外は、すべてふるい落とされることになる。本当のものとはなにか。変わらない信仰とは、どのようなものか。私たちは、殉教者の歴史の中に、今そのことを学ばなければならないのではないだろうか。そのために、彼らは自らを死に渡し、キリストのあとを従い行ったのであった。そして、私たちが真にそのことを実践するためには、今まで良いと思っていたことを再考し、あるいは結果的にそれを憎むということにさえならないとも限らない。たとえば、自分自身のそれまでの生き方さえもである。つまり、信仰の練達においては、自分自身が自分自身の最大の敵とならなければならないことさえあるということである。
 ツアラトストラは語った、「しかし、きみこそがつねにきみ自身にとって、おおよそきみが出会いうる最悪の敵であるだろう。きみ自身が、もろもろの洞窟や森のなかで、きみを待ち伏せしているのだ。きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼き尽くそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう。わたしの涙を伴って、きみの孤独の状態へおもむけ、わたしの兄弟よ。自分自身を越えて創造しようと欲し、かくして破滅する者を、わたしは愛する」と。

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