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2010/03/18

隣人愛について

 キリスト教は、隣人愛を教える。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ」と。それは神の戒めであり、それゆえそれは、社会に向けて語られたものではなく、ただあなた一人だけに向けて語られた戒めである。キリストの戒めは、すべて個人に向けて語られている。戒めは、裁きのためにあり、裁きは個人に向けて成されるからである。それゆえ、「隣人」と言われるとき、それはただ一人のあなたのただ一人の隣人、すなわち「友人」を意味しているのである。
 しかし、教会にも社会にも、たくさんの隣人がいて、それらの人々があなたの隣人愛を待っているように見えるのである。そしてあなたは、それらのたくさんの人々に平等に隣人愛を注ごうと奔走する。しかし、それはもともと無理な努力である。主イエスが言われたのは、そのような意味ではない。主イエスは、あなたがつねに一人の人の友となるべきことを命じられた。99匹の羊ではなく、ただ1匹の羊の真の友となるようにと。それは、あなたを愛するただ一人の真の友である主イエスがおられるから可能なのであり、またそうするべきなのである。
 しかし社会は、この聖書が教える隣人愛の意味とは、まったく違う隣人愛を要求する。あなたがすべての隣人に対して、平等に接するようにと。一人に良きことをするなら、他の人にも同じようにするようにと。そして、それができないなら、それをする必要はないと。その考えは、だれにでもしてあげられるようなことだけを行うように奨めているのであり、結局は、隣人に対しては、ささやかな親切程度にとどめるべきことを命じているに過ぎないのである。
 この社会的な隣人愛の捉え方が教会に入ってきたら、そこは愛のない場所と化すであろう。キリスト教には、元々社会性はない。社会的な隣人愛の実践には、彼らは不慣れなのである。もし、教会に愛や暖かい心が欠如していると感じているなら、このことを調べてみる必要があるだろう。つまり、教会のみんなが、社会の慣習や思いを持ち込んでいることはないか。求道者や新来者に対する配慮のあまり、教会の敷居を低くし、社会とのギャップを埋めようとしていないか。社会でも通用するクリスチャンを理想とし、教会をあげてその養成に努力していないか。もしそうなら、そのような場所では、主イエスが命じられた隣人愛の実践は期待できないのではないだろうか。
 ツアラトストラは語る、「わたしはきみたちのもろもろの祝祭をも好まない。そういう祝祭の折には、わたしはあまりにも多くの俳優たちを見出したし、また見物人たちも、しばしば俳優たちのように振舞ったのだ。隣人ではなくて、友人を、わたしはきみたちに教える。友人はきみたちにとって大地の祝祭であるべきだ、また超人についての一個の予感であるべきだ」と。

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