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2010/03/17

千一の目標について

 この世界には、これまでたくさんの民族が興亡してきた。それぞれに異なる価値観、善悪の基準を持つそれらの民族は、また往々にして宗教も異なっていた。千の民族に千の価値観、千の善悪基準、そしてそれらが反映した千の宗教。それらの内のどれが真のものかということを証明するのが歴史であった。キリスト教は、この試練に耐え抜き、その信憑性を獲得した。そしてそれについては、他の3大宗教も同様である。そのようにして歴史を勝ち抜いてきた民族の持つ諸概念は、みな独自のものであり、互いに相入れない。それぞれが自分こそ真であると考えるのであり、そのようにして他民族と戦い、互いを駆逐してきたのである。
 そこで、相対的な考えで生きる者は、歴史から究極的なものを学ぶことがないであろう。ツアラトストラは語る、「これまでに千の目標が存在した。というのは、千の民族が存在したからである。ただ、千の頸に投げかけるべき鎖がまだ欠けている。一つの目標が欠けているのだ。人類はまだ目標を持っていない。だが、さあわたしに言え、わたしの兄弟たちよ。人類にはまだ目標が欠けているのであれば、同様にまだ欠けているのではないか、まだ人類そのものが。」
 しかし、民族それ自体は相対的な存在ではなく、それぞれが自己を絶対視する。民族の内部から相対的な考えが生まれることはないだろう。いったいどこからそれは生まれ来るのだろうか。その考えは、各民族間の違いを払拭する方向性を持つ。そしてそれは、究極的には民族を否定する意味を持つのである。そこで、それもやはり一つの民族を主張していると言えるだろう。つまり、相対的な考えというのは、あり得ないのである。絶対的なるものは相対的に取り扱うことはできない。絶対的なものを相対的に扱うとき、その相対的な考え自体が絶対的なものとなるのである。
 そこで、キリスト教と他宗教を調和させようなどという考えは、全く狂った考えであり、民族の存在を無視した考えと言えよう。宗教間の調和などあり得ない。それが民族の属性であろうとも、あるいはそうではなかろうとも。キリスト教は、自らを絶対視するのであり、他宗教をあくまで駆逐するのであり、尊重することなどはないのである。それがキリスト教というものなのである。

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