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2010/03/16

友人について

 私の内には、私を見ているもう一人の私がいる。この二者関係は、私が人生を生きる上で、最も基礎となるものである。この内なる私との関係は、私と他人との関係に大きな影響力を持っている。しかし、そうは言っても、この二者関係は、私と他人との関係と本質的に異なるものである。というのは、そもそも他者は私ではないし、私と違う考え方をするのだから。
 教会における兄弟姉妹との関係については、しばしばこれを美化し、理想化して考えることがある。しかしそれにより、現実とのギャップに遭遇し、教会に幻滅してしまうこともある。そしてまた反対に、教会も所詮、泥臭い人間の集まりに過ぎず、世の様々な組織と何等変わらないと思ったりすることもある。現実は、どちらが本当なのだろうか。
 信仰と現実とは、いつも対立していて、調和することがない。しかし、生きた信仰は、現実の中へと侵攻する。教会の確信は、「交わりは神聖なものである」ということである。信仰の兄弟姉妹の関係は、清い聖なるものとして啓示されている。そこには、世俗的な思いの入り込む余地はない。もしそれが入り込むならば、教会ではなくなるだろう。それらは、決して調和しない。このことを忘れてはならない。それらを調和させようとしてはならないのである。たとえ教会の中に、実際は世俗的な関係やできごとが存在していても、それによって清い信徒の関係が、損なわれることは決してない。そこが教会であり、キリストの体である限り、流された小羊の血がそこに働いているのである。そして、私たちがそこにおいて、世俗から心を翻して信仰に立ち帰り、小羊の血にのみ依り頼むとき、それは現実を打ち破り、そこに神の国を顕現させる力をつねに持っているのである。
 だから私たちは、兄弟姉妹との関係を清く保つように努めよう。そうすればそこに小羊の血が働き、それによって私たちは清くされる。人は一人で、つまり自分との二者関係の中でどうして清く成り得ようか。また、この世的な人間関係の中でどうして清く成り得ようか。ツアラトストラは語る、「きみは、自分の友人の前では、なんの衣服も身につけないでいたいと思うのか。あるがままのきみを彼に示すことが、きみの友人の名誉になるというわけか。だが、そんなことをすれば、彼はきみを悪魔にくれてやりたいと思うことだろう。」「きみは自分の友人のために、どれほど美しく着飾っても、着飾り足りない。というのは、きみは彼にとって、超人へ向かう一本の矢、一個の憧憬であるべきだからだ」と。
 人は、社会の中にあってさえ、友と真実な関係を持とうとすれば、一人の人間として、外的な体裁を保ち、節度を身につけ、ある理想化された自己意識の中に自分を置く必要がある。まして、キリストの体としての教会においては、なおさらではないか。
 「きみは奴隷であるか。そうであれば、きみは友人であることができない。きみは暴君であるか。そうであれば、きみは友人たちを持つことができない。おお、きみたち男どもよ、きみたちは魂がなんと貧しいことよ、なんとけちくさいことよ。きみたちが友人に与えるほどのものなら、わたしは自分の敵にだって与えるだろう。そうしたからとて、わたしは別に、それだけ貧しくなりはしないであろう。仲間同士の親しみというものはある。友情があればよいのだが」、このようにツアラトストラは語った。

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