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2010/03/12

純潔について

 「心の清い人々は幸いである。彼らは神を見る」とキリストは言われた。クリスチャンは、心が清い人々と思われているかもしれない。しかし「心が清い」とは、どういう意味だろうか。考えられるその一つの意味は、「清くなった人」であり、これは当たっていると思う。然り、クリスチャンは、清くなった人々である。しかし、この表現が高慢と偽りでないためには、その原因が問われる必要がある。すなわち、彼らが清くなったのは、神によって「清くされた」からである。しかし、「心が清い」というのにはもう一つ別の意味がある。それは、「清くなろうとしている」という意味である。そして、これがせいぜい、世間一般における純潔の意味なのである。というのは、彼ら世間の人々には、「本当に清い人など存在しない」という確信があるからである。どこから彼らは、その確信を手に入れたのだろうか。彼ら自身の経験からである。彼らも一度くらいは清い人生を求めたことがあったかもしれない。しかしそれは、所詮かなわぬ夢であった。そこで彼らは、それは幻想だと確信するに至ったのである。そして、彼らがクリスチャンを「心が清い人」と呼ぶときにも、それは文字どおりにそう思っているわけではないのだろう。それは幻想だと彼らは信ずるのであり、その代わりに、「清くなろうとしている」とか、「自らを清いと思っている」とか、甚だしくは「自らを清いと偽っている」と見なすのである。しかし、世間の人がどう思おうと、信仰者にとってはどうでも良いことである。人にはできなくても神にはできるのであり、また、神の目から見て清い人こそが真の清い人だからである。
 それでは、信仰者は自分のことを胸を張って「心の清い人」だと思っているだろうか。否、それが不可解なことに、意外とそうではないのである。というのは、クリスチャンに「あなたは、心の清い人ですか?」と尋ねてみればすぐに分かる。「とんでもない、私は罪人の頭です」というような答えが返ってくることが圧倒的に多いのであり、「はい、そうです。イエスの血潮によって清められました」と答える人はほとんどいないのではないだろうか。なぜかと言うと、キリスト教会においても、清めはどうもまだ現在進行形なのであり、それによれば、私たちが清められるためには、キリストの流された血潮以外になお何かが必要とされているようなのである。あるいは、キリストの十字架の福音を、卒業までにあと百回ほども聞くことが必要なのだろうか。もしそうでないなら、なぜキリストの十字架のメッセージばかりが無制限に語られるのだろう。
 キリスト者は、すでに「清められた人」なのである。たとえその人に、まだ人間的な弱さが多く残っていたとしても、また外見の行状や言葉遣いが、世の一般の人と比べて劣っているように見えたとしても、そんなことは、どんぐりの背比べのようなものだ。肝心なのは、彼のために流されたキリストの血を彼が受け入れたということである。それにより、彼は完全に清められたのである。だから、自分が清いか清くないかなんて、もう考えるのはよそう。そんなことを判断する力は、私たちにはないから。罪を犯す前のアダムでさえそれを持っていなかった。清い者には、自分の清さは分からない。罪を犯して初めて彼はそれを、すなわち善悪を知ったのだった。だから、理由もなく、ただ清められたと信じよう。そうすれば清くなる。簡単なことだと思わないかい。
 ツアラトストラも語る、「まことに、心の底から純潔な者たちがいる。彼らは、純潔をも笑いものにして、尋ねる。『純潔とは何だろう。純潔は愚かさではないか。だが、この愚かさがわれわれのところへ来たのであって、われわれが愚かさのところへ行ったのではない。われわれはこの客に宿と心を提供した。いま彼はわれわれのもとに住んでいる。彼の望むだけ長く、滞在するがよい。』と。」

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市場のハエどもについて

 キリスト教において市場に該当するものと言えば、キリスト教書店が思い浮かぶ。そこでは、書籍やグッズが売られている。しかし教会では、日々の糧としての聖書を通して信徒教育と交わりが行われる。しかし、俗的な日々の糧、たとえば米は商品であるし、教育教材もまた商品となる。そこで教会も、そこが神の言葉の市場となる危険性を内包していると言えないだろうか。たとえば、説教一つにしても、それが信徒の気に入るようにとか、受けるようにとか、そういう心遣いが多くなってくると、何だか商品ぽく思えてくるのも無理からぬことではないだろうか。それはまた、祈りについても言えるかもしれない。礼拝の中や祈り会等、人の前で祈るとき、何か人受けを意識してしまったり、小奇麗な整った祈りをしようと思ってしまうことがあるかもしれない。また、聖書の勉強会やその他の交わりの時等においても、司会者や意見を言う人たちも、どこかその場の雰囲気に引きずられて、空気を読むような振る舞いに終始してしまうことがある。まるでゲームでもやっているみたいに。
 以上のことは、教会が人の集まるところであることの宿命とも言えるかもしれない。しかし本来教会とは、神と人の一対一の集合体なのである。律法にしても、神と人の契約が基礎になっているし、説教にしても、牧師を介してではあるかもしれないが、根本的には、神から一人の信徒へと真理が受け渡されるのである。そしてその真理は、大衆に向けて贈られたものではなく、その人ただ一人に向けて贈られるものである。教会で「会衆」ということが言われるときにも、それはあくまで、一人の集合体としてなのであり、神はいつも一人の信徒を見つめておられるのである。だから私たちは、いつもこのことを心にしっかりと持っている必要がある。そうでないと私たち信徒は、実体のないものの中に埋没することにより、結果的に群れから迷い出てしまうことになる。ツアラトストラは語る、「きみの孤独のなかへのがれよ。きみは、卑小な憐れむべき者たちの、あまりにも近くに生きた。彼らの、目に見えない復讐から、のがれよ。きみに対して、彼らは復讐にこりかたまっている。」
 もちろん会衆の一人ひとりがあなたに牙を剥いているということではない。しかし、それらが「民衆」となったときに、その存在があなたに対して害を成すようになる。しかし会衆は、いつも神に向かって立っているものだ。私たちはみな、神を見上げて立つ会衆である。

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