« 2010年3月9日 | トップページ | 2010年3月12日 »

2010/03/10

ワルツ

 ワルツとは言えないような3拍子の曲である。その透き通った和音から、ソルだということがすぐに分かる。この曲は、簡単なのだが、どうも間違えずに弾くのが難しい。なめてかかるからだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

新しい偶像について

  「国家とは、すべての冷やかな怪物たちのなかで。最も冷やかな怪物のことだ」とツアラトストラは言う。国家の徴表は「善悪についての言語が混乱していること」だと彼は言う。
 エジプトはイスラエルを支配した最初の国家だった。イスラエル民俗は、そこにおいて大いに増え広がったが、自らは国家となることなく、そこから脱出した。しかし、彼らが約束の地に入った後に、彼らは自ら王を求めた。彼らには、それか何を意味するのか分かっていなかったが、それは結局国家を指向することであった。そして、それが彼らの罠となり、彼らはその呪縛から逃れることなく、ついにバビロン捕囚に至ったのである。国家とは、神の王国に対峙するものであり、そこにはいつもサタンの王座が据えられる。なぜそうなるのかと言うと、それは万民を支配する一つの権威であり、しかも神に対立する権威だからである。たとえ国王がクリスチャンだったとしても、国王は国家の前に絶大の権力を持ちえない。そこが国家である限り、国王も国家に従うことを強要される。国家の言うことを聞かない国王は暗殺されてしまう。それは世界の歴史が語っている。
 「善人も悪人も、すべての者たちが毒を飲む者であるところ、わたしはそれを国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべての者たちが自己自身を喪失するところ、それが国家だ。すべての者たちの緩慢な自殺が『生』と呼ばれるところ、それが国家だ」とツアラトストラは語る。私たちは、国家をそのように観る必要があるのであり、それゆえたとえキリスト教国であっても、その王座を最終的に操っているのはサタンなのである。イスラエル国家にしてもその例外ではなく、その王権が平和の内に再臨のキリストに引き継がれるのではなく、終わりの日が来る前にその権威は打ち砕かれるのである。
 もし教会に、国家と同じような考えが入り込むならば、そこにもサタンの王座ができるだろう。「国家と同じ考え」とは、「多数者のために」ということ、すなわち「民主主義」であり、そのために犠牲となることが賞賛され、暗に強制される。ここに価値観の大混乱が起こっているのである。それゆえ教会において、国家の倫理が運用されることのないように注意しよう。多数者の嗜好とか、多数決とか、アンケートとか。それらは、存在したとしても、単なる参考資料でしかない。それが重要視されるとき、教会は国家と同じ運命を辿るだろう。
 「国家が終わるところ、そこに初めて、余計者でない人間が始まる。そこに、必然的な者の歌が、ただ一回的な、かけがえのない旋律が、始まるのだ。国家が終わるところ、さあ、そちらを見やるがよい、わたしの兄弟たちよ。きみたちにはあれが見えないか、虹が、また超人の橋のかずかずが。」このようにツアラトストラは語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

戦争と戦士たちとについて

 クリスチャンは平和を求める。キリストも「平和を創り出す人は幸いである」と言われた。しかし、何が平和を創り出すのか。旧約聖書は、何を語っているか。それは、平和の前に多くの人の血が流されて来たことを語っている。アダムが罪に陥り、カインが最初の殺人を犯して以来、この世界に真の平和はなくなってしまった。そして、たとえキリストが十字架に架かっても、この世界に真の平和が訪れたのではない。確かに、キリストは十字架に向かう前に、「私はすでに世に勝っている」と言われ、信仰者はこのキリストの言葉に平安を受ける。しかし復活のキリストは、「勝利を得る者には」と言われる。つまり、キリストのもたらした平和は、戦いの中の平和だったのであり、その点では、事態は旧約聖書と何も変わっていないのである。キリストがもたらしたのは、この戦いにおける勝利の約束だったのであり、私たちはこの聖戦の中に依然としているのである。
 それゆえ、現代の教会においても、この 聖戦から逃れて、安穏とした平和の気分に身を置こうとする者は、腰抜けであり、卑怯者とされる。臆病者は、「人を憎むことは、キリストの愛に反する」と言い、戦いに同意しない。しかし、戦いの動機は憎しみではない。「この戦いは、主の戦いだ」と叫んだダビデの戦意は、憎しみではなかった。彼は、その確信においてすでに敵に打ち勝っていた。そして、神の聖い裁きを高らかに宣言したのである。それゆえ私たちは、旧約聖書からなお多くのことを学ばなければならない。今も戦われる聖戦とはどういうものかということを。
 ツアラトストラは語る、「わたしはきみたちに、労働ではなくて、戦闘を勧める。わたしはきみたちに、平和ではなくて、勝利を勧める。きみたちの労働は一個の戦闘であれ、きみたちの平和は一個の勝利であれ」と。
 信仰生活は、戦いである。教会は、平和に浮かれる者ではなく、キリストと共に戦う者を求めている。ああ、現代の教会で語られるメッセージが、戦いへの誘いであったなら。しかし現実は、そこには安っぽい慰めと宥めの言葉が氾濫している。それゆえ神の軍隊は、敵に良いように討ち負かされている。「軍隊」?、そうだ。私たちは、自分が軍隊の中にいることを知る必要がある。私たちが何と思おうと、そこは戦場であり、それは軍隊なのであるから。
 ツアラトストラは語る、「このように、きみたちの、服従の生、戦争の生を生きよ。長生きになんのことがあろう。どんな戦士がいたわられることを欲しよう。わたしはきみたちをいたわらない。わたしはきみたちを心の底から愛するのだ。戦争に従事している、わたしの兄弟たちよ」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年3月9日 | トップページ | 2010年3月12日 »