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2010/03/09

死を説教する者たちについて

 「私は、キリストと共に十字架につけられた」と聖書は語る。「キリストは、私たちの罪のために死んでくださった。それゆえ、私たちもまた、友のために命を捨てるべきである」と。しかしキリストが死んだのは、また私たちがキリストの復活の力により、新しい命に生きるようになるためなのである。
 もし私たちがキリストの復活の力を知らず、ただ十字架につけられたままならば、これほど惨めなことはまたとないであろう。それほどに、十字架は悲惨なものであり、キリストは私たちの救いのためにその恥辱に甘んじられたのであった。それゆえもし説教者が、復活について少ししか語らないなら、キリストの十字架の悲惨についても、中途半端にしか語れないであろう。復活なしの十字架には意味がない。しかし、現代のキリスト教会はどうであろうか。キリストの十字架と死については、長々と語るが、復活については、説教の最後の落ち程度にしか語らないのではないだろうか。もしそうなら、現代キリスト者の人生が、さながら死人のようになってしまっていても不思議ではない。そこで、もし現代のキリスト信徒に活力がないように見えるなら、その点を疑って見ることが必要かもしれない。
 それでは、キリストの復活を語るとは、どういうことだろうか。それは、いま生きているキリストについて語ることである。それは、聖書の中にも書かれている。たとえば、ヨハネの黙示録や使徒の働き、およびそれらを背景とした使徒の手紙等における復活のキリストへの言及がそれにあたるだろう。私たちの耳は、この復活したキリストのことを聞きたがっている。しかし、もしそれが聞かれず、キリストの死ばかりが語られるなら、私たちは信仰の到達点を見失うことになるだろう。そして、それは信仰者にとっての一つの危険である。というのは、信仰者は自分本意な考えを捨てるように求められている。しかし、自分の考えを捨てた者に、その後で代替えの確固としたビジョンや導きが与えられないなら、彼は様々な肉的な誘惑にさらされているゆえに、危険な状態の中に身を起き続けていることになるからである。そして、彼がそれらの誘惑に負けるのは、時間の問題である。実際彼は何度となく、それらの誘惑に負けることだろう。というのは、彼をして誘惑に勝たしめるのは、死んでいるキリストではなく、生きているキリスト、復活のキリストだけだからである。そして、彼がそのことに自分で気づくまでには、多くの敗北を経験しなければならないかもしれない。力のない説教者は、キリストの十字架の死と永世天国のセットで福音を調理する。そして、キリストと共に苦しむことを厭う者も、十字架の麓に留まる。しかしそこには、人を罪から解放する復活のキリストの力は働かない。復活のキリストに出会うことなしには、人は依然として罪の奴隷のままである。
 それゆえ、キリストの十字架と死ばかり語る者に、ツアラトストラは語る、「死を説教する者たちの声が、いたるところに響いている。そして大地は、死を説教されなくてはならないような者たちに、充ちているのだ。死の代わりに『永遠の生』が説教されようとも、それはわたしにとってどうでもよいことだ。彼らが速やかに去って行ってくれさえするならば。」

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