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2010/03/08

山の木について

 熱心なクリスチャンは、良く聖書を読む。神に祈りつつ、聖霊に導かれてさらに読み進む。そのようにして、彼と神との関係は、次第に深いものとなっていく。ああしかし、そのことにより彼自身が、一種凡人離れした人に成りつつあるのだとしたら。すなわち、イスラエルの王ソロモンが言っているように、「知識を増すものは、また憂いを増す」のである。人は、知識を得れば得るほど、彼の現実とのギャップを多く認識するようになり、そのために彼は幸福になるどころか、返って不幸になって行ってしまうのである。
 たぶん彼の姿勢は間違ってはいない。彼の心は、神に喜ばれ、神のみこころに従う生活を願う。しかし彼の心には、もう一つの法則がある。アダム以来の罪の法則である。そこで、彼の得た真理と戒めが、彼の生来持っている罪の性質と相反するのであり、そのようにして彼の内に格闘が始まるのである。それだけではなく、罪は彼の外にも氾濫しており、そこを生きる彼の義を損なおうとして攻撃をしかけ、彼を孤立させようとするのである。それらの格闘はいつまで続くのか。彼と彼の中の罪のどちらかが死ぬまで続くのである。しかし、彼が生きいている限り、彼の内にある罪の性質が死ぬということもまたない。そこで、彼自身が死ぬしかないのであり、この戦いの決着は、実はそこにしか落ち着くところを持たないのである。
 しかし、そもそもなぜそのような一見矛盾したことになったのだろうか。それは、他でもない彼が神を求め始めたからであり、その良いことが彼に災いをもたらしたのである。ここに一つの大きな矛盾がある。そして、人がこの矛盾を乗り越えるためには、大いなる従順と謙遜が必要なのである。然り、この謙遜を持たないものは皆、この矛盾の前に躓き倒れるだろう。正しく生きようとする彼を襲う試練、それは彼の目には矛盾であり、そのようなことを許される神に彼は疑問を持ち始めるのである。しかし、良く観察して見るならば、彼の内の矛盾が次第に明らかになってくる。というのは、彼は何故に悩み苦しんでいるのだろうか。それは彼が、自分の欲していることを得られないからである。それでは、彼はいったい何を欲しているのか。神の栄光ではなく、彼自身の名声なのである。彼は、彼の義に向けた努力に神が報いて下さることを欲しているのである。神は正しいお方だから、彼の努力に報いて下さるはずだと信じているのである。しかも速やかにである。彼は、神の成すべきこと、そしてその時期までも、自分のペースで想定しているのであり、それに従わない神が気に入らないのである。しかし、神の前に従順にされたいと思う者は、決してそのような循環の中に入って行くことをしてはならない。
 それでは、彼はどのようになれば良いのだろうか。まず、義を追い求めることをやめることである。人は神の義だけに依り頼むべきであり、それは永遠に変わらないからである。次に自分に死ぬということである。つまり、賢くなろうとせず、良い者にもまた強い者にも成ろうと思わず、ただあなたの弱さの中に神の栄光が現れることを求めることである。というのも、神が意図されているのは、弱い愚かなあなたを助けて、ご自身の栄光を現されることだからである。それゆえ、あなたの神への思いを捨ててはいけない。知識は廃れ、力は衰える。しかし、神への思いは永遠に尽きることがないからである。
 ツアラトストラは語った、「わたしの愛と希望にかけて、わたしはきみに懇願する。きみの魂のなかの英雄を投げ捨てるな。きみの最高の希望を神聖なものとして尊重せよ。」

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