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2010/03/06

読むことと書くこととについて

 聖書は、世界のベストセラーと言われる。それは、長い年月を経て、変わらぬ価値を維持し続けている。しかし、どれくらいの人がその真の価値を知っているのだろうか。
 聖書は、特に旧約聖書を読んでいると、あたかも人に読まれることを想定していないかのようにも見える。キリストも「耳のある者は聞きなさい」と言われた。その通り、聖書は読者には本来無頓着のようだ。ところが、その聖書を楽しく読むために、いろいろと趣向を凝らして、味付けをする人がいる。あるいは、様々な教材を取り寄せたり、分量を加減したりする。彼らは、聖書を自分なりに解釈することがそれを理解する道であり、そのようなことの積み重ねが聖書を自分のものにする方法だと思っているようだ。しかし彼らは、一つのことを忘れている。「聖書は、神がその選民の血で買い取られた私たちへの箴言である」ということを。ツアラトストラは語る、「血と箴言とで書く者は、読まれることではなくて、暗記されることを欲する」と。然り、聖書は読み物とされることを欲しない。それは、学ばれることも、分析されることも、楽しまれることさえも欲しないのである。聖書をただ暗記せよ。それをあなたの心に刻みつけ、その通りに生きることを求めよう。神がそれを与えて下さることを祈ろう。そして、あなたが聖書について語るときには、あなた自身を語るべきである。それがあなたの中にある聖書であり、神があなたに賜った珠玉の言葉なのだから。かつて、聖書を書いた人物、そこに生きた人々は、命をかけ、自分の血でそれらを綴りあげた。しからば、それを読む者も己の人生を生きる決意をもってそれに応答すべきではないか。
 もしあなたが聖書の言葉を生きようと願うなら、決してそれを学ぼうと思ってはいけない。学ぶということは、見上げるということだ。しかし生きるということは、見上げることではなく、それ自身になることである。そして、それと共にこの世界を見おろすということである。ツアラトストラは語る、「わたしはもはやきみたちと感じ方を同じくしない。わたしが自分の下に見るこの雲、わたしが嘲笑するこの黒く重い雲、まさしくそれが、きみたちにとっては雷雲なのだ。きみたちが高揚を熱望するとき、きみたちは見上げる。ところがわたしは、高められているがゆえに、見おろす」と。
 真理は決して妥協することがない。真理を知ったものもまた妥協しない。彼にはただ勝利があるのみである。聖書を読むのは、それを人に説明したり、それをもって人を説得するためではない。それは、あなたが出て行って勝利するためであり、そのようにしてあなたの人生において、勝利者となるためである。それゆえ私たちは、聖書から何を学ぶべきだろうか。もちろん聖書の意味などではないことは確かだ。それでは、何を学ぶべきだろうか。まずは「歩くこと」である。あなたの歩みが神のみこころにかなうものとなるように。誰の指示でもなく、聖書を参考にしてでもなく、あなたの意志で歩むあゆみを神が気に入るようにである。次に「飛ぶ」ことである。あなたが自分の能力を越えて働くときに、神があなたを助けられるように。そのとき、挑戦と勝利があなたの生業となる。さらに「止まること」である。そのように神があなたの内で働かれるならば、あなたはもはや歩くことも飛ぶこともなくなる。そのときあなたの内で生きるのは、あなたではなく、神ご自身だからである。
 「わたしは歩行することを学んだ。それ以来、わたしは自分を走るにまかせている。わたしは飛行することを学んだ。それ以来、わたしは、突き動かされるのを待って、初めて動き出そう、などという気はなくなっている。今やわたしは軽やかである、今やわたしは飛行する。今やわたしは自分を自分の下に見る、今や或る神がわたしの身うちを踊って過ぎる」。このようにツアラトストラは語った。

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