« 2010年3月3日 | トップページ | 2010年3月6日 »

2010/03/04

青白き犯罪者について

 「キリストが私の代わりに十字架にかかり、私の罪のための購いをして下さったことにより、私の罪が赦された」とクリスチャンは言う。しかし、「私の罪」とは、何だろうか。彼は告白する、「物欲です」、「出世欲です」、「無知です」、「強情です」、「他人を見下す心です」等々と。そのように人は、自分の中の些細な罪を告白することを好む。しかし、本当にそれだけだったのか。ただきみのそれだけの罪のために、キリストは十字架に架かったのか。「そうです。だから、罪の告白は簡単です。」、「それは、万人のためにあるのですから、簡単であるべきです。それはまた、始まりに過ぎないのです」と。そしてきみは、そのようにきみ自身を裁き、満悦の内に、すべてが完了したと思い込んでいる。しかし実はきみは、きみの中の本当に裁かれるべきものが何であるかを知らないのだ。それを教えよう。それは「殺意」である。しかも「キリスト自身に向けた殺意」なのだ。つまり、キリストを十字架にかけたのは、「きみの内にも働いていて、あのときたまたま、ユダヤ人の指導者たちの心を挑発した原罪」などではなくて、「きみ自身の意志、願望」なのである。すなわち、きみ自身がキリストに「死ね」と叫んだのであり、きみ自身の手がキリストの手首に釘を打ち込んだのである。
 いったい何がキリストの十字架の価値をそのように低下させてしまったのか。それはやはり、キリスト者の不注意というべきかもしれない。キリスト教は、堕落して罪を犯した死ぬべき人間を神の子の身分にまで引き上げる。しかしその前に彼は、自分の罪を告白し、心から悔い改めなければならない。ああしかし、彼がもし、やがて自分の成るべき身分としての神の子の姿を、先走りして心に思い描いてしまうようなことがあるとしたらどうだろう。そうならないといったい誰が言えようか。というのも、今日のキリスト教会の中にも、インターネットにも、福音のストーリーのダイジェスト版が配布されていて、それが誰にでも実に易々と手に入るようになっているのだから。そこで、それを偶然に手にした者は言うだろう、「あまり自分を卑下する必要もないかな。自分は、神に愛される存在なんだから」と。
 どうしてそのようなことがあり得ようか。神の独り子を十字架につけた極悪人が、中途半端な悔い改めだけで赦され、一転して神の子に変えられるなどというようなことが。それは決してあってはならないことである。キリストもそのように恩知らずな者たちに対して、たとえを述べて「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」(マタイ21:41)と言われたではないか。
 私たちの今の状態は、なんだろうか。私たちはいったい、福音の真理を理解しているのだろうか。それは、愛でもなく、かと言って狂気でもなく、もしかしたらキリストが、「口から吐き出そう」と言われたようなものではないのだろうか。
 ツアラトストラは語る、「きみらの善人たちにおける多くの点が、わたしに吐き気を催させる。だが、まことに、彼らの悪が吐き気を催させるというわけではない。どうか彼らが、この青白き犯罪者のように、なんらかの狂気を持ち、それによって破滅するというようであってくれたらなあと思う。まことに、彼らの狂気が、真実、あるいは忠実、あるいは正義と呼ばれるというようであってくれたらなあと思う。だが、彼らが自分たちのものとして持っている徳は、長く生きるためのものであり、しかも或るあわれむべき自己満足のうちに生きるためのものなのだ。わたしは流れのほとりの一つの手すりだ。わたしにつかまることのできる者は、わたしにつかまれ。だが、わたしはきみたちの松葉づえではない」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年3月3日 | トップページ | 2010年3月6日 »