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2010/03/03

歓楽と情熱とについて

 アメリカにおいて、キリスト教精神は一つの美徳である。政治家も聖書に手を置いて宣誓をする。そして、この名の元に様々な慈善活動が繰り広げられている。しからば日本においてはどうか。会社や学校で、たとえば、自分がクリスチャンであることを公然と表している人がどのくらいいるだろうか。それは、あえて言う必要がないからという理由もあるかも知れないが、中には恥じらいの感情を持っている人も少なくはないだろう。そのように、陰のような信仰生活を送っているのは、いったい何のせいかと言えば、ようするにその人は、複数の徳の板挟みになっているのである。つまり、信仰の徳と社会の徳である。そして、それら二つの徳は、決して調和することがない。そこで、それらの調整のためには、第三の徳が必要になる。しかもこの第三の徳は、実は先の二つの徳に優先するプライオリティを持つ必要がある。そこで、これこそが本質的な徳であり、最重要なものと言えないだろうか。しかし、クリスチャンはこの第三の徳の必要性を認めようとしない。返って、それは我欲であるかのように考える。そして、「すべてを主にゆだねよ」と言う。しかし、本当に彼は、自分の言う通りに行為しているのだろうか。いったい彼は、どのようにして神の声を聞くのだろう。往々にして、ぎりぎりまで判断を待つ代わりに、何か具体的なきっかけや自分の急く心に従って行為してしまうのが現状ではないだろうか。というのは、もし神の声が実際に聞こえて、彼がそれに従うときには、もはや社会的な徳との調和はあり得ないから。しかし、この世界には、時間というものがあり、弁証法というものがあるので、相対立する二つの徳の調整が可能なのである。その際に中心的な役割を演じるのが先の第三の徳なのである。
 しかし、なにもキリスト教の外に目を向けなくても、その内部においてさえ、複数の徳が存在するのである。例えば、旧約聖書と新約聖書、メソジストとカルビニズム、牧師と信徒、これらは互いに異なる徳、似て非なる徳を所有している。そこで一人の信徒として、教会に所属するためには、各人が自らそれらの徳の間の調整をする必要がある。そしてそれには、熟練者の援助が必要なのである。しかるに、いったい誰がその重要な奉仕をしてくれるのか。否、誰もいないのである。クリスチャンは、教派があることを認める。しかし、教派間の徳の概念の違いを認めようとしない。教派が違っても神の徳は同じだと考える。それが異なると考えることは、一方を他方より劣っていると考えることだと言うのである。というのは、彼らにとって徳は、善悪の概念を含む論理であり、その基準が複数あるのは矛盾だからである。しかし、クリスチャンの教会生活における様々な葛藤は、実はこの徳の多様性から生まれ来るのである。
 いずれにしても、成熟したクリスチャンになろうと思うなら、上記のような様々な価値観の間の調整を自分の意志で行う必要がある。つまり、教え込まれたり、たたき込まれたりした徳ではなく、彼自身と生ける神との二者関係の中にある絶対的な徳の適用が必要なのである。つまり、彼自身が徳の人となることである。そのように、この世界の徳を絶対視せずに尊重するものだけが、それらの諸徳の調整役となれるのである。そうでないと、その人は、それらの諸徳間の葛藤により、精神が引き裂かれるか、または反対に無感覚にされるに到るだろう。そうならない為にはまず、自分がたくさんの徳にとり囲まれていること、そしてそれらの徳を自分の意志で調整しなければならないことを認めることである。そうなったとき、あなたは初めて、自分の認識する諸徳の奴隷となることから解放され、それらを心から愛することができるのである。そのためには、自分の上にキリスト教精神があるなどとは考えないことだ。なぜなら、そのとき判断を下すのは、あなた自身だからである。それは、今の自分を超克することなのかもしれない。しかし神は言われる、「わたしは、あなたの心に私の律法を書きつけよう」と。
 そしてまた、ツアラトストラも言う、「人間は超克されなくてはならないところの、何ものかである。だからこそ、きみはきみの諸徳を愛すべきなのだ。というのは、きみはそれらの諸徳によって破滅するであろうから」と。

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