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2010/03/02

身体を軽蔑する者たちについて

 清貧は信仰者の美徳であり、この世を軽んじることは、信仰の極意である。しかし、それを盾にとって、社会における義務を怠ったり、努力を惜しんだりすることは、神の戒めを軽んじていることになると思う。
 クリスチャンは、天国に想いを馳せる。とくに試練の中にあるときなど。例えこの世界における生活が苦しいものであっても、「悲しんでいる人は幸いである。虐げられている人は幸いである」との主イエスの言葉に慰められて人生を生きることができる。それは、単なる慰めではない。しかし、いつしかそれが「どうせ天国へ行けば」という表現に変わってくることがないと言えようか。それくらいならまだ、受け入れられることかもしれない。というのは、その人は神の約束を信じ、それに自分をかけているからである。しかし、さらにエスカレートして、神を信じていることが、天国へ行ける特権ということになると、それは確かに真理ではあるが、なんだか落ち着かない気分にもなってくる。
 人は、どうしたら天国に入れるのか。それは、ただ主イエスを信じるだけであり、それ以外に何をしても無駄であり、それが福音の真理であり、神の救いなのである。ああしかし、まさにこのことが人に、人生を真剣に生きる気力を無くさせることにつながるとしたら。良い成績を採っても、高い業績を上げても、努力をしても、人に親切にしても、世のため人のために尽くしても、それは何の功績にもならない。天国はそういうところだとしたら。「あなたは、高価で尊い」と神は、すべての人に言われる。それは、神がすべての人を創造されたからである。それゆえ、神は罪人を愛して、彼がまだ罪人であるうちに、ご自身の愛する御子を世に降され、罪の購いを成し遂げられた。それゆえ、すべての人は、生まれながらにして、神に愛される存在であり、神はあなたが帰って来るのを、毎日首を長くして待っておられるのである。
 しかし、ツアラトストラは語る。それは、欺瞞だと。この世界は、天国の前に無きに等しいものなどではない。神は、この世界を目的を持って創造されたのだから。いったい何が、この世界を無意味なものに変えてしまったのかと。高齢化社会、温暖化、オゾン層の破壊、資源の枯渇、経済の困窮、その他諸々の問題に対して、クリスチャンは何と考えるのか。「どうせ天国に行けば」という考えが、心の片隅、どこかにないとどうして言えるだろうか。世界のあちこちで地震があり、戦争のうわさを聞くと主イエスは言われた。そのとき、クリスチャンは、何を考えるだろう。「どうせ彼らも天国に行けば」という考えが心のほんの片隅にないと言えるだろうか。もしそうだとしたら、私たちの信じている福音は、何かがどこかで、狂ってしまっていると言えないだろうか。何が狂わせたのか。身体を軽蔑し、見えないものこそが真理であるという形而上学的な、変な哲学的な仮定こそがその根源なのであり、キリスト教はその助けを借りて、福音の武装を固めてきたのかもしれないのである。かつて自由主義神学が隆盛したとき、神の言葉への回帰という旗印を掲げて戦ったバルトは、「神の歴史(救済史)」なるものを考えだした。それは、カントの超越論哲学の影響を受けたものではなかったのか。
 それゆえ、ツアラトストラは語った、「きみたちは今や生と大地とに対して憤怒の念をいだいている。きみたちの軽蔑の横目のうちには、或る無意識の嫉妬がある。わたしはきみたちの道を行かない。きみら身体を軽蔑する者たちよ!きみたちはわたしにとって超人への橋ではないのだ!」と。

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自分の居場所

 私は、良い父親になろうと思ったことは一度もない。かと言って、悪い父親になろうと思ったこともない。どのような父親になろうとも、思ったことがないのである。それでは、どのように生きてきたのかと言えば、自分の居場所を守ろうとして来たのである。そう言うと、なにか見苦しいような表現になるが、そうではないつもりである。どうなのかというと、つまり、私がどのような父親であろうとも、そこに私がいることが大切だということである。私という父親は、他の誰かが代理ができるようなものではなく、他ならぬ私がそこにいるしかしょうがないのである。
 たとえば、一国の大統領でも、総理大臣でも、その人がそこにいることが大事なのである。あの悪名高かったフセイン大統領でも、その場にいなくなってしまったら、アメリカが来て占領し、その結果、平和が取り戻されたかというと、ある意味で返って悲惨な状況になったということがあった。それなら、最初からフセイン政権が続いていた方が良かったと思う人もいることだろう。日本にしても、民主党になって良かったという人も、やっぱりだめだという人もいるだろう。しかし、総理大臣がどのような評価を受けても、たとえダメ人間であっても、任期中は、その場所を守れるのは、その人だけなのであり、他の人ではだめなのである。
 だから、例えば父親が、自分は父親の資格がないなどと言って弱気になり、自分の居場所をゆずってしまうようなことがあると、とたんに家族全員が不安になってしまうのである。例えダメおやじでも、その人が大きい顔してそこに居座っていさえすれば、なんとなく家庭には安心感があるのである。そして、このことは、大統領とか総理大臣とか社長とか先生とか父親だけではなく、すべての人がそうなのであり、自分のいる場所を守っていけるのは、その人だけなのである。そして、この世界はそういうものだということを理解して、会社やその他の組織に参加したり、社会に貢献したり、教会生活を営むなら、その人は幸いだと思うのである。

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