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2010/03/01

背後世界論者たちについて

 人はしばしば、自分の生きている世界に困難や矛盾、不条理等を感じることがある。そしてそれが容易に解決できないと感じたとき、それがいっそ夢であれば良いと思ったりする。つまり、そのときその人は、自分が直面している現実から逃避しようとしているのである。そして、この現実逃避と似てはいるが、さらに攻撃的な現実回避策がある。それは、現実世界に対立する新しい概念を創造することである。例えば、現実世界に対して、その背後世界が存在するという概念である。
 キリスト教は、そのようにして人為的に創造されたものなのだろうか。ツアラトストラは、ここで少なくともそのような断定をしているのではない。しかし彼がここで指摘しているのは、そのようにして創造されたキリスト教がこの世界に存在するということなのである。それは、どんな異端であり、どんな新興宗教なのか。いや、伝統的なキリスト教諸派の信仰の中に、あるいはそれらを信じる信者の実践の中にそれが存在し得るというのである。つまり、「キリスト教は変質し得る」というのが彼の主張する命題であり、「キリスト教は変質してしまった」というのが彼の観測である。
 キリスト教は、もちろん人が創りだしたものではない。しかしそれがいつしか、あたかも人が創りだしたもののようになることがある。例えば、読んでも良く理解できないような聖書の個所を、さも分かったように友達に吹聴するようなことがあるかもしれない。あるいは、自分がたまたまキリスト教会の会員であるということから、キリスト教こそが真理だと断定して議論するようなことがもしあるなら。また、自分がこの世界や自分の人生に失望していることを信じたくないばかりに、キリスト教に傾注し、その絶対性を誇示しようとするようなことがもしあるなら。キリスト教会の中に自分の居場所を発見し、その既得権を維持し、さらに拡大することに意欲を持っているようなことがもしあるなら。幸福なときは信仰生活に励み、苦難がやってくるとそこから離れ去ってしまうようなことがあるなら。およびこれらに類することがもしあるのなら、そのときは、そのようキリスト教は、人間が創りだしたものということができないだろうか。
 キリスト教にたくさんの教派があることは、神の恵みの多様性を表すものだったのかもしれないが、それがいつしか、他教派との差別化や競い合いによる自己主張と繁栄への努力が主たる目的になってしまっているとしたら。使っている聖書が互いに違うことから、教理的な対話が一切タブーとなっているようなことがもしあるなら。あるいは無神論者から、神の存在証明を要求されて、おもわず哲学を持ちだしてしまうようなことがもしあるなら。さらに、教派間の交流をと言いながら、妥協できる範囲だけで会話し、その同類の外の教派との溝は返って深まっているようなことがあるなら。そのようなことがもしあるなら、そのようなキリスト教には、人の創り出した部分が含まれるとは言えないだろうか。
 それゆえ、ツアラトストラは語る、「一つの新しい誇りをわたしの自我はわたしに教えた。その誇りをわたしは人間たちに教える。もはや頭を天界的な諸事物の砂のなかへ突っ込まないで、頭を自由にもたげることを、大地に意味を賦与する一つの地上的な頭を。一つの新しい意志をわたしは人間たちに教える。この、人間が盲目的に歩いてきた道を、意欲し、そしてこの道を是認し、もはや、病んで死滅して行く者たちのように、この道からこっそりとわきへ逃げたりしないことを」。このようにツアラトストラは語った。

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