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2010/02/26

徳の諸講座について

 人々が一人の賢者をツアラトストラに推奨したので、彼はその賢者の抗議に列席した。賢者は徳について巧みに語った。どのように巧みだったかというと、徳を必要以上に推奨することをしなかったのである。むしろ徳の実践を自分の快い眠りのために推奨したのである。それは、徳を行うことにより、自分の義を誇示しないことにつながると共に、自分の健康においてもこれほど良いことはない。そして、それらのことにより、人々が喜び楽しみながら、そして高い理想をいだきながら、40もの徳の実践にいそしむことを可能にするものであり、子どもから大人、年寄りまでも、それぞれの成長に合わせて、状況に応じて、無理なく実践し、その効果が日々分かるという完璧なアプローチであった。
 ああ今日でも世の人は、そのような賢者を求めている。そして、そのような教えを提供し、手の届くところにある徳の実践に気づかせてくれる人を賢者と呼び、敬い、その見返りとして良き生活、文化的で裕福な生活と名声を彼にプレゼントするのである。そして、それが再び彼らの誇りであり、一体感であり、文化であり流行となるのである。
 しかしツアラトストラは、自分の心のなかでひそかに笑って言った、「その40の考えをいだいてそこにいるこの賢者は、わたしにとっては一人の阿呆だ」と。「そしてまことに、生がなんの意味も持たず、わたしが無意味を選びとらなくてはならないものとすれば、わたしにとっても、これは最も選び取るに値する無意味であることだろう」と。
 ああツアラトストラよ、あなたは少なくとも「人生とはなにか」ということに目覚めている。かの賢者のように、ただただ人生をやり過ごすために生きているというのではない。あなたは良いことを行うにも達者ではないし、良いこととは何かに精通しているのでもない。しかし少なくとも、良いことがどこにあるのかを知っていると思うのだ。
 「これらのほめたたえられた、講座の賢者たちのすべてにとって、知恵とは夢のない眠りであった。彼らは生のよりよき意味を知らなかったのだ。徳のこの説教者のような者、だがこれほど正直であるとはかぎらない者が、今日でもなお、若干いることはいるが、しかし彼らの時は過ぎてしまったのだ。かくて、彼らはもはや長くは立っていない。彼らは、早くも横たわっているのだ。これらの眠たげな者たちは、さいわいである。というのは、彼らはまもなくいねむりをするであろうからだ。」このようにツアラトストラは語ったのであった。

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三つの変化について

 ツアラトストラは、彼が獲得した幾人かの友に向けて、人の精神の成長における三つの変化について語った。それは、彼の理想としての人間像である「超人」への道筋を示すものでもあった。
 人は、物心ついたときから学ぶことを覚える。それは、彼が知恵を得、それによってまず、この世界において一個の精神として覚醒し、自分の位置をつかむためである。そこにおいて彼は、常に自分を変革する努力をする。書物を読み、先人の教えを学び、苦しい仕事を率先して行い、良きこと、価値のあること、誉れあることについて思いめぐらし、また実践し、苦痛を堪え忍ぶ。そのようにして彼は成長し、一個の考える精神となる。それは、「らくだ」のごとき、重荷に耐える精神である。しかしその前提となっていたのは、このころにおいては、ヨーロッパに君臨していたキリスト教世界により創造された価値観だったのである。
 しかし、彼がそのようにして成長し、ついにキリスト教倫理の前に一個の精神として立つに至るとき、そこにある一つの可能性が見い出されざるを得ないのである。それは、実に反逆の可能性なのであり、それは単に、彼がキリスト教倫理の「なんじ、なすべし」という至上命令への反抗として繰り出すものではなく、倫理にただ従うだけの精神から脱皮し、一個の「獅子」のように自由な精神として、真理の前に自らの意志で立つために必要なものだったのである。そしてあえて言えば、それゆえに神は、彼の前からそれを除き去ることをされなかったのである。そこで人が、この野生性を真に自分の身に引き受けたとき、彼は初めて勝利者となり、純粋に彼自身の意志で良きことを喜んで行う者となり得るのである。
 しかし、往年のダビデがそうであったように、彼の精神に次の段階がやってくる。それは最後に、そのような勝利者としての彼自身をも超克することである。それにより彼は、ついに自分を縛っていた最後の砦としての自我から解放され、永遠の自由の内に「子ども」のように安らうのだ。しかも大地の意志を満たしながら。
 ツアラトストラが語ったことは、私にはこのような意味に思われるのである。
 ああしかし、ツアラトストラよ、そのような解釈は、あなたに対する冒涜となるのであろうか。それなら私は、自ら筆を置こう。しかし、私はあなたから、なにごとかを学ぶために、いまこの書を開いているのである。

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