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2010/02/25

超人と最後の人間とについて

 ツアラトストラは、30歳にして一人山に入り、40歳になったとき、山から下界へ降りて、人々に教えを宣べ伝えようと思い立った。思想や宗教は、宣べ伝えられることにより人々の心に達する。しかし、宣べ伝えようという意志は、どこからやって来たのだろうか。この書によれば、それは彼がその隠遁生活の末に、知恵を得たからであった。その知恵は彼に、人が本来あるべき姿を提示した。ツアラトストラは、人間であったゆえに、自分と同じ人間が本来あるべき姿で生きていないのが耐えられなかったのである。そして、彼がつかんだ人間の本来の姿は、彼が「超人」という言葉で表現する姿であった。彼は、その思想を持って山から降りて行き、世の人々に語ったのであった。しかし、彼らはそれを受け入れなかった。ツアラトストラが提示した「超人」なる思想は、彼らにとっては、高すぎる理想だったのである。
 なんという皮肉であろうか。ツアラトストラが社会を後にして、人里はなれた山に登ったのは、当時のキリスト教世界が人々に提示する生き方、すなわち「神への従順と献身」からの逃避であったかもしれない。そしていま彼は、それらの古い倫理観を超克する新しい思想に到達し、それを持って現実社会へと帰還した。彼は世の人に語った、「あくまで大地に忠実であれ、そして、きみたちにもろもろの超地上的な希望について話す者たちの言葉を信ずるな。彼らがそれと知ろうが知るまいが、彼らは毒害者なのだ。・・・かつては神を冒涜することが最大の冒涜であった。しかし神は死んだ。そして、それとともに、これらの冒涜者たちもまた死んだ。大地を冒涜することが、いまでは最も恐るべきことである。そして、探求しがたいものの内臓を大地の意味よりもより高く評価することが」と。それでは、彼が獲得した新しい力とは、その偉大さとは、何だったのか。「人間にとって偉大であるところのもの、それは、人間が一個の橋であって、目的ではないということである。人間において愛されうるところのもの、それは、人間が一個の過渡であり、一個の没落であるということだ」。つまり、当時のキリスト信仰は形骸化し、何も良いもの、魅力あるものを生み出さず、それ自体が虚しい目的と化してしまっていたのであろう。ツアラトストラが目指したのは、そのような死んだ思想から離れて、自らの感ずるところを自らの意志で生きる、成熟した義の生涯だったのである。ああしかし、彼らはその意味を理解しなかった。問題意識すら持っていなかったのである。その有様は、まさにツアラトストラが語った「最後の人間」のように無気力で、ただ快楽だけを追い求め、いっさいのことに疑問を持つこともなく、評論ばかりして、何の創造性もない、生ける屍のような存在だったのである。
 そのような彼らを見てツアラトストラは、あの山を降りるときにすれ違った老人のことを思い出した。彼の忠告は、ある意味であたっていた。そして、もしツアラトストラが単に、何か名声を得るためや、ちょっとした善意かまたは自己満足のために山を降りようと思ったのだとしたら、そのときは彼の決心は、これらのことにより、跡形もなく崩れ去っていたであろう。しかし、そうではなかった。ツアラトストラの決心は、それ自身として真実なものであった。それゆえ彼は、自ら語ったところの「一個の橋」、「一個の没落」になろうと欲したのである。そしてその決心は、彼をして新しい境地に目覚めさせる。それは、主なるキリストも実践した方法であり、一人の道連れを得、その者に教えを語ることであった。そのように、一人の弟子を得、そしてその者を一人の友とし、動労者とし、やがてその人と共に、彼の目ざす超人となることであった。
 このようにしてツアラトストラの没落は始まったのであった。

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三つの闇について

 かつて主イエスは、群衆をあとにして山に登り、そこで口を開き、神の国について教えられた。そのように、「神の教えを受けようとする人は、人々の間に広まっている一切のことの上へ登りゆき、それを越え出なければならない」とエックハルトは言う。それは、神がその本性の高みと甘美さとを告知しているものであり、そこは天使も到達することのできない、はるかな神の高みなのであるが、魂はそこにまでも到達することができると彼は言うのである。しかしそのために人は、「精神を集中し、自分自身の内に堅く身を閉ざし、すべての不安や心配や低き事物への愛着に背を向けていなければならず、そのようにして、多岐にわたり、また細かく分けられた魂の諸力、そして論証的な思惟さえをも越え出ていかなければならない」とエックハルトは言うのである。
 精神は、三つの認識力を持つと彼は言う。「第一のものは身体と結びついたものであり、たとえば目がものを見て、その像を受け入れるように像を受け取る。第二のものは精神的なものであるが、身体的事物からなおも像を受け取る。第三のものは精神における内的なものであって、像も写しもなしに認識する。この認識は天使にふさわしいものである」と。そして人には、これら三つの認識を持ってこの世界を生きながら、また一方でそれらを越え出て、遙かな高みへと到達し、そこで神の教えを聞く力が与えられているのである。エックハルトはその力を、これら三つの認識に対応して、それらの超越としての「三つの闇」として提示するである。
 第一の闇とは、「人が無に執着して盲目となり、被造物について何も知ろうとしなくなること」であり、これは身体的な認識からの自由である。第二の闇とは、「魂が何も知らず、何も認識しようとしなくなること」すなわち、一切の論理的思考からの自由である、そして第三の闇とは、魂が天の光さえも求めなくなることすなわち、すべての意志、意欲からの自由である。というのは、エックハルトによれば「天はそれ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない」からであり、そのようにして「魂もまたこの闇の中では一切の光を失う」のである。
 彼は語る、「神は闇の中で輝いているがそこでは魂は一切の光を越え出ている。確かに魂は、その諸力の内で神の光と甘美さと恩寵とを受け取る。しかし、魂の根底にはひとり神以外、他の何ものも入りこむことはできない」と。魂は、どのようにして一切の事物を越え出て行くのだろうか。それは、知性が魂から発出することにおいてである。その場合、発出した知性自身は、魂自身とは別の本性の内に入り込んでいくことになる。この知性とは、感性や理性を越えた高次の知性のことである。そして魂は、その可能性として、それらの場所にさえも留まることなく、それらを遙かに越えているのである。
 魂から知性が発出すること、そして知性が魂自身とは別の本性の中に入って行くということの目的は、エックハルトによれば、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければならない」ことによる。彼は語る、「もし魂が一切の像を越え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。そして、「私たちは、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」。

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